「なぜ、 あなたの弟子たちは、 昔の人の言い伝えを破るのですか。 彼らは食事の前に手を洗いません (マタイ 15:2)」
最後の晩餐の場面は、 どんな様子だったのだろうかと、 ふと思うことがあります。 ユダヤ人は、 儀式的に手を洗い、 そのとき祝祷を唱え、 感謝の祈りを捧げるなど、 沢山の作法にしたがって食事をしたそうですが、 弟子たちは、 食事のときにお行儀が悪かったのでしょうか。 マタイ福音書によるとファリサイ派と律法学者たちから、 手を洗っていないことを批難されています。
「日本」 では食事のとき、 右利きの人の場合は、 右手で箸を持ち、 左手でご飯茶碗や汁茶碗を持ちますね。 幼いときから食事のときに、 茶碗を持つことを躾けられてきましたが、 どうして、 左手で茶碗を持つのかという理由について、 わたしは韓国で生活をするまで考えたこともありませんでした。
「日本」 では、 7世紀初めに食事で箸が使われ始めます。 奈良時代にちょっと匙が使われますが、 14世紀頃には箸だけで食事をするようになります。 韓国の食事では、 箸と匙の両方を使います。 匙はスッカラ、 箸はチョッカラとそれぞれ呼びますが、 スヂョ (匙と箸) と両方をあわせて呼んだりもします。 匙ですくって、 ご飯も、 スープも食べますので、 お茶碗は持ち上げません。 箸はおかずを取るときに使うぐらいなのです。
生活をする前から、 何度か韓国を訪問していましたので、 お茶碗は持ち上げないことは知っていました。 ですが生活をしていると、 食事のとき韓国の人がお茶碗を持たないことが、 気になり始めました。 その他にも、 一つの汁鍋から自分のスッカラで直接スープを飲むことや、 立ち膝で食事をすること、 箸と箸で食べ物のやりとりをしたりする光景を目にする度に、 お隣の国なのにずいぶんと違うものだと驚き、 何でそうなのだろうかという疑問がわいてきました。 調べてみて驚いたのは、 茶碗を持たないのはお行儀が悪くなく、 茶碗を持って食べる方が、 世界的には特異で、 韓国でもそうですが、 お行儀が悪い場合が多いというのです。
匙、 スプーンを使い、 食べ物を口まで運ぶ場合、 食器を持つ必要がありません。 しかし、 「日本」 では匙を使いませんので、 食べ物をこぼさずに口元まで運ぶには、 器自体を口元に近づける必要があるのです。 なかでも汁物は、 お椀に口を着けなければ飲むことが出来ません。 匙を使わないことが、 茶碗を持ち上げる作法を生み出していたのです。 そして茶碗を持つ行為は、 反対に茶碗自体が匙なのだという、 日本独特の考え方を生み出してきたのです。 匙、 スプーンは手に持たないと、 食べ物を口に運べませんよね。 日本では茶碗自体が匙ですので、 どうしても持たないではいられないのです。
弟子たちがしなかった食事の手洗いは、 衛生的な理由ではなく、 宗教的な穢れを清めるために行われていました。 イエスさまは、 行いや出来事を表面的に、 規則からだけ判断するファリサイ派や律法学者たちを、 偽善者と呼びます。 イエスさまの時代には、 寝そべって左手で頬杖をつき、 右手で食べ物を口に運んだということですが、 わたしたちから見るとなんともお行儀が悪く、 注意したくなりますよね。
わたしたちは、 自分と違うものと出会うときに、 違和感をおぼえます。 その違和感をそのままにしていたのでは、 その出会いを深めてゆくことはできません。 どうしてなのかということを、 丁寧に見てゆくこと、 知ってゆくことが、 「違い」 がひしめき合う今の教会の状況に必要なのではないでしょうか。 違う相手を、 深く知ることが、 自分自身を豊かに知ることにつながってくる、 そんな歩みをともにして行きたいと思います。
司祭 アンブロージア 後藤 香織
(名古屋聖マタイ教会副牧師)