「エクレシア」としての教会―新型コロナウイルスに向かい合う―

新型コロナウイルス感染症が世界的な流行を見せる中、教会でも感染の防止のため様々な対策を取ることが求められています。

本稿執筆の時点(3月15日)で、日本聖公会の11教区中5教区が公開の礼拝を休止しています。中部教区では、今のところ全面的な礼拝休止はしていませんが、近隣での感染者発生のため一時的に主日礼拝を休止した教会があり、今後の状況によっては当教区でも礼拝休止に踏み切らざるを得ない可能性もあります。

今回のウイルスは具体的症状がないうちに他人に感染する場合があり、これは自分で自覚がなくても感染源になる、また周囲にいる人から感染している、という状況が確率の問題で起こりうるということです。また厚生労働省からは、感染を防ぐために「換気が悪く、人が密に集まって過ごすような空間に集団で集まること」を避けるよう勧められていますが、多くの教会はまさにこの条件に当てはまりますし、教会には不特定の方が出入りする可能性もあります。このことから考えれば、緊急対応としての礼拝休止にはやむを得ぬところがあります。

一方、教会がその本質として「エクレシア(集会、集まること)」であることを考えれば、「危険なので礼拝を止めます」で済む話でないことは言うまでもありません。しかし、今回の感染症は条件によっては命の危険につながるものでもあり、通常の風邪などと同様に扱うことはできません。教会がいのちを大切にする共同体であればこそ、この問題には慎重に対処することが求められます。

小生が出向中の東京教区では、礼拝休止中の対応の一つとして、主教が捧げた聖餐式の録画映像を配信しており、多くの方にご利用いただいています。その中で、予想しなかったような使われ方が浮上してきました。

ある牧師が病院におられる信徒さんを訪問し、この映像をスマホで見せたところ、「ずっと教会に行けないのでとても嬉しい」と涙を流して喜ばれたそうです。また、自宅にいる時間が長い年配の方が、毎日ビデオを繰り返し見て、聖歌を歌っておられるとも伺いました。私たちは日曜日教会に行けない、聖餐にあずかれない、と言う前に、こういう方々をこれまでどれほど心にかけてきたのかと省みるべきではないか、と思わされました。

先日、カトリック教会やルーテル教会とのエキュメニズム対話の会合でも、この問題が話題になりました。ルーテル教会では当面聖餐式を執行しないこととし、またカトリックの長崎教区ではミサを中止している間、家族などで一緒に当日の聖書を読み、分かち合いをするよう勧めておられるとのことでした。今回の出来事は、私たちがみ言葉によって生かされ、それを身近な人びとと分かちあうように招かれていることを思い起こす時でもあると、両教会から教えられたように思います。

エクレシアである教会は、いかなる時にも「集まる」ことをやめてはなりません。しかし、具体的な「集まり方」には多くの可能性があることにも開かれていなければなりません。神さまは、この困難なときに、教会がどこを向いて、どう行動するように促しておられるのでしょうか。

司祭 ダビデ 市原信太郎
(主教座聖堂付 東京教区出向)