『雪がとけたら』

主の復活をお喜び申し上げます。
毎年イースターを三月下旬から四月中句末頃までに迎えます。この日本においては、まさに春を迎える季節と重なります。特に私達の教区でも新潟県や長野県に生活する者にとっては、気の重い屋根の雪下ろしや、毎日の天気予報に一喜一憂し、腹が立つやら、切ないほどに繰り返される雪かきに追われていた重労働から解放され、心身ともに晴れ晴れする、待ちに待って、待ち焦がれていたところのすべてが躍動する春のイメージそのものです。
「雪がとけたら…(イースターの)春になる」

何と喜びと希望に溢れた言葉の響きでしょう。
私達は先の大斎節において、主の十字架の苦難を偲び、神の愛を想い、断食など種々の欲望を絶ち、懺悔と祈りの特に聖別された期間を過ごしました。しかし、主の十字架の苦難を想うことに期間のあろうはずはもちろんありません。とそう言いつつ、メリハリも無くイースターを迎えてしまう事もないわけではありません。大切な事は、形式的な断食や禁欲でこの大斎節を過ごすのではなく、主が悪魔からの誘惑を退けられたように私達も真剣に戦い、神の力に助けられながら誘惑に立ち向かおうとする姿勢を忘れてはならないことだと思います。
敵意をもつ人々の謀略により十字架にかけられ殺されてしまった主イエスの最後は、弟子達には大きな衝撃であった事はいうまでもありません。イースターの朝、マグダラのマリアがもたらした主イエスの復活の知らせも、自分の目で確かめた空の墓の事実も、エマオから帰ってきたクレオパの報告にも確信できず、ペテロは仲間と一緒にエルサレムを逃げ出し、ガリラヤ湖畔に帰ってしまいました。弟子達も主イエスの復活を確信できなかった様子を正直に聖書は伝えています。四つの福音書がこの主の復活について語るところは、「復活は可能か」、「復活された主の状態(肉体か霊体か)」「復活の意味する事」などについてではなく、復活された主に接した人々の経験を中心に、この人々がどの様に変わったのか、変えられていったのかについて語っていきます。聖書は信仰が理論や理屈ではなく、生活である事をも語っているのです。
主の復活は私達人間の理解を超え、常識を打ち砕く出来事です。歴史的な事実として納得できるまで確かめようとしても不可能な事です。空の墓をいつまでものぞいている姿に他なりません。主はもうそこにはおられないのです。
復活の主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」方であり、生きて今私達と、今私と共におられるのです。共におられる主にあって毎日の生活を営み、共におられる主にあって感謝と讃美を奉げます。
四つの各福音書は主の復活の物語で結ばれています。しかし、復活の主に出会い、新しい生命を受け、生かされ生きている者達の手によって記されていく第五の福音書の著者は誰でもなく私達白身であり、ひとりひとりが「復活の証人」とされています。たとえ挫折や失敗、裏切りを繰り返す弱々しい者であったとしても、その故にこそ福音を証しする器として必要とされています。その呼びかけに少しでも応えられますように祈って参りましょう。イースターの喜びと感謝とともに、心も新たに信仰を生活する私達自身の言行録の新たなページを記して参りましょう。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)