『世界のためにある教会』

この言葉は1960年代ころからことあるごとに言われてきた言葉です。 そのことが表している一つのことは、 世界全体が神の深い愛の対象であったということです。 神は神の子イエス・キリストを世界に遣わし、 人とし、 その地上の生涯、 十字架の死、 復活によって人間とすべてのものを救われました。 「神の子」 とは神とイエスの関わり方を、 有限である人間の言葉で最大限表現してみたものです。けれどもこれは「神」と「子」とは、まったく別であるような感じを与えます。しかし神と神の子とは一体です。イエスを表現するのに「神の子」と言う表現しか語りうる言葉がない。神の子の世界への登場とは実は神の大きな犠牲それも「世界」への大きな犠牲でした。つまり、イエスの生涯は、特に十字架の死は、神が別に関係ない人にそれを負わせ、なされた事柄ではなく、何と神がご自身を傷つけたことであり、痛みを負って、人間を始めとする全被造物を、すなわちこの世界を罪より救われたことなのです。イエスにその使命を与え、ご自身は離れて見ていたのではなく、神はご自分を傷つけてまで、私たち世界を愛されたのです。
教会は「キリストのからだ」であり、愛する世界に正義と平和が打ち立てられるまで、弱くされた人々のために働きます。このことの中にすべての人がいることは間違いがない。しかしそこには「弱い人々の優先」という考え方があることも長く言われてきたところです。世界が、実際は神の慈しみ深い「支配」(「神の国」の「国」を表す)の下にあるとするなら、また世界は広い意味で「教会」であるという洞察を受け入れるなら、現在の戦争、テロ、争い、人権侵害、いじめ、病気、貧困、ホームレス、環境破壊、政府の危ない政策その他否定的なことは、みな教会の中での出来事であることになり、私たちは黙視することはできません。私たち信徒に行動を促します。
教会は世界のためにあることのもう一つは、すべてが神によって「造られた」ことにあります。神は世界をその愛のゆえに、「良いもの」として創造されました。造られたものつまり被造物は造った方つまり神に賛美、感謝をつねにささげるようになっています。「主を賛美するために民は創造された」(詩編102:19)とあるとおりです。被造物が造物主なる神を賛美し感謝することは被造物の喜びの務めです。この世界全体は常に神に感謝をささげねばなりません。1世紀頃から「感謝」という名前の礼拝が教会によってささげられてきました。それはエウカリスティア(「感謝」の意。聖餐式のこと)と呼ばれました。つまり被造物の務めに気づいている教会は絶えずエウカリスティア、その他の感謝をささげてきたのです。教会は、「被造物の感謝」の務めに気づいていないこの世界のために、とりなしをし、世界を代表して、世界をその中に取り込んで、感謝をささげているのです。つまり、教会はこの世界のために存在するのです。教会のこの務めをすべての被造物が気づき、万物が「感謝」をささげる日を、神と教会とは待ち望んでいます。「み子が再び来られるまで」(日本聖公会祈祷書175ページ)。

主教 フランシス 森 紀旦

『インマヌエル』

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエス・キリストの誕生物語は、マタイ福音書とルカ福音書の二つにあるが、この聖句はマタイ1章23節で、「インマヌエル」という言葉でよく知られている。
インマヌエルは旧約聖書のイザヤ書7、8章に出てくる言葉で、冒頭の聖句中のインマヌエルは7章14節のものである。ギリシャ語で「神はメトゥ(と共に)・ヘーモーン(我々)」となる―マタイ福音書の誕生物語を読む場合、この言葉を覚えておこう。そしてマタイ福音書の特徴を見てみよう。
ルカ福音書には無くマタイ福音書特有のこの聖句について考えてみたい。インマヌエルはヘブライ語で、意味は「神は我々と共におられる」である。「我々と共に」であり、「われと共に」ではない。
マタイ福音書の誕生物語では、イエスは「王」として生まれる。占星術の学者たちのヘロデ王への言葉は、「ユダヤ人の『王』としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とある。このことによってヘロデは自分の「王位」が危ないと不安を感じ、急いで祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、誕生の地は「ベツレヘム」であると教えられる。ヘロデ王は「見つかったら知らせてくれ」と言って送り出し、「私も行って拝もう」などと心にも無いことを口にする。
イエスが王として述べられる記事はさらに続く。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、贈り物をささげた」と。そこには、身ごもっているマリアとヨセフの、人口調査のための旅も馬小屋も出てこないし、羊飼いという社会の底辺を生きる人たちも登場しない。
しかし、マタイ福音書のイエスは単なる権勢を誇る「王」ではなく無力な王なのである。それは以下の物語と地上の生涯でわかる。占星術の学者たちがヘロデ王に知らせないで帰国の途に着くと彼は大いに怒り「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残さず」殺すのである。幼子はマリア、ヨセフと、その危難の直前に天使の言葉に従いエジプトに逃れた。ようやくヘロデ後の時代になったので帰還しようとするが、大王の子供たちが支配していて危険なので、ナザレの町へひきこもる。王になる人物らしくない。
続く物語は他の福音書と同じくイエスの地上の生涯の叙述であり、神の国についての教え、病人のいやしが述べられる。そして十字架の死、復活が詳述される。
最終章28章に至り、イエスは11人の弟子たちに全世界への宣教命令を与える。その最後の文章に注目したい。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」であるが、最後の最後でまたインマヌエルとよく似た言葉が出てくる。メトゥ(と共に)・ヒューモーン(あなたがた)。
「神は我々と共におられる」「わたしはあなたがたと共にいる」。この「わたし」とはイエス・キリストのことである。マタイ福音書は、神があるいはイエスが我々教会と共にいるという、初めと終わりの宣言で、何と囲まれている福音書なのである。
主教 フランシス 森 紀旦

『復活のイエスの招き』

主イエス様のご復活を心からお祝い申し上げます。

「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」

ヨハネによる福音書21章の冒頭にある物語中の一節である。
ヨハネ福音書は20章できれいに終了している。「本書の目的」をもってきちんと閉じられている。その後何らかの理由で編集者により21章が付け加えられたのである。わたしはこの21章が好きである。お好きな方も多いと思う。21章の中の1節-14節も好きである(目を通していただきたい)。この物語に流れる雰囲気がとてもいい。20章までにペトロにイエスが現れたと言う物語が無いので21章が付加されたのかどうかわからないが、21章全体がシモン・ペトロに関する物語となっている。
まだ復活に出会っていないペトロを初めとする数名の弟子たちが十字架の大騒乱のあとふるさとに戻り、少々疲労気味の中で、慣れた「漁」に夜行くのも自然である。「何もとれなかった」(3節)と記されている。4節の夜明けも象徴的だ。その時刻にイエスは岸に立っておられ、静かに彼らの言動を見ておられたとある。イエスの言葉に従って綱を打つと、引き上げることが出来ないほどの大漁という仰天すべき出来事が起こる―ルカ福音書5章1節以下に関係があるか? イエスの愛しておられた弟子が、主であることを告げると、裸同然だったペトロが上着をまとって湖に飛び込んだという描写、彼の人物、性急で、ユーモラスな性格を見、わたしたちは思わず微笑む。
わたしはこの物語の弟子たち全体の言動の静けさと、心の中のしみじみとしたはちきれるほどの喜びを感じ、描写のうまさに感心する。黙っていても成り立っているイエスと弟子たちとの以前からの関係、しかもあの十字架事件による狼狽と何と復活されたイエス。そこにはイエスに「あなたはどなたですか」と問う必要もなく、弟子たちに「十字架の時は大変だったね」と裏切りを口にする必要もない両者。すべてイエスに見通されており、しかもイエスの赦しが感じられ、責められることもない。焼いた魚を真中に、イエスと気恥ずかしい弟子たち。謝ることも無く以前の関係と同様の関係に甘えられるうれしい気持ち。
暖かい目で見通されている弟子たち。これはイエスとわたしたちの今の状況であろう。わたしたちは分かられている。知られている。個人的に、また社会の中で、世界の中で、わたしたちはみ心にかなう生き方をしようとしながら、主イエスをしばしば裏切ってしまう。40日間の大斎節をともに歩みながら、そのことを切実に感じてきた。しかし大斎節は復活日で終わりとなる。いかなる、み心にかなわない状況にあろうとも、イエスは変わることなく、咎めることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と手を広げて招いてくださる。わたしたちは分かられている。うれしいことである。
聖餐式は復活のイエスが弟子たちとなさった食事の記念でもある。心から復活日の聖餐式をささげよう。
主教 フランシス 森 紀旦

『カード訪問』

牧会の基本が「訪問」にあることは言うまでもない。イエス様がその人を訪ねている。聖職者(教会)はそれを目に見える形で表現しなければならない。
しかし訪問が得意な場合はよいが、人にはそれぞれ得て不得手があるものだから、教役者だからといって簡単にできるものではない。私もいわゆるマメな性格ではないので、神学生の境から、卒業後いかに訪問するべきか困っていた。
2年生のときの夏期勤務でそれが解消した。大宮聖愛教会の斎藤茂樹司祭(後の主教)のところで勤務となった。同司祭と朝夕、礼拝をささげ、様々な仕事をやったが、その中に同師の訪問のやり方があり、それが私のその後の牧会のあり方を決めたのである。
斎藤司祭は古ぼけた1冊のノートを見せ、説明してくれた。それは最初の頁が1月1日、次の貢が1月2日、というふうで、366日ある。各頁は誕生・洗礼・堅信・結婚・逝去に分かれていて、1月1日にいずれかの記念日がある人の名が書き込まれている。2日以降もそうなっている。これだけ作るのは教籍簿を見れば簡単なことだが、問題はこのノートの使い方である。
同教会では中部教区の諸教会と同様、主日聖餐式でその週に記念日を迎える人のためお祈りしていた。同師は、誕生.洗礼・堅信・結婚・逝去を迎える人―逝去者の場合は関係者―あての5種類のカードを予め1年分作っていた。
私も始めた。訪問する動機ができるし、手渡して記念日のことを中心に話もできる。そして次の家へ。不在の時は郵便受けへ。カードには簡潔に「洗礼記念[○月〇日]おめでとうございます。次の主日の礼拝(○月○日)でお祈りいたします。ご出席ください。19△△年前橋聖マッテア教会」と印刷。「年に3回必ずその人を訪問できるよ」と斎藤司祭に言われたことを思い出す。
この方法はどの教会に行っても本当に助かった。訪問する方は「会える」、される方は「礼拝に出るよう勧められる」(カードの言葉だけで)。大体一週間に10枚くらい。地図で家を調べ、自転車で一回りしてくる。前橋は県庁所在地で広かった。雨や雪のときは市街地の人だけで、後は郵送となる。「郵送ぐせ」がつくとこの方法は意味がない。市外の人たちの場合は主としてバスであった。
あるときバスに乗り、教会に来ていない一人の男性(60代?)を訪ねた。挨拶しても黙って盆栽に水をやっている。「○○記念、おめでとうございます」。振り向きもしない。「持ってきたカードをここにおいていきますね」。バスに乗って帰ってきた。10数年後その人が教会で活躍していることを、転勤先の教会で知った。
家が分からない人の場合は勤め先の会社に持参した。「イラッシャイマセ」 と言ってくれる受付の女性に告げる。あわてて降りてきたその人は必ず次の主日礼拝に出た。会社訪問はよくした。
人数は増え、皆で宣教について考えた。教会の感謝献金もものすごく上がった。ささげた人の名を月報に載せるから、多い人はわずかずつでも5回おささげしていた。
訪問できないことがはっきりしている場合、信徒さんが礼拝の帰りに寄って渡してくれるよう頼んだ。それだけでも人と人との触れ合いがある。
最近よく思い出すことを取りとめもなく書いてみた。
継続は力である。

主教 フランシス 森 紀旦