戦後70年と沖縄

 6月23日は“沖縄慰霊の日”に当たりますが、今年は戦後70年ということで日本聖公会の現職主教全員が沖縄に参集し、平和のために祈ることになっています。
 言うまでもなく太平洋戦争において沖縄は国内で最大の地上戦が行われたところです。そして、死者は日本側だけで約19万人で、うち沖縄関係者の死者は、民間人約9万4千人を含め12万2千人余りと言われています。
 悲惨な戦争の実態はわたしたちがしばしば見たり聞いたりしているところです。中部教区では1986年に教役者がそろって沖縄へのスタディツアーを行い、沖縄が置かれている現実をつぶさに学びました。6月23日の慰霊の日には当時の諸魂教会で沖縄教区礼拝に参加し、信徒の方から沖縄戦での悲劇の証言をお聞きしました。
 また、集団自決で多数の人々が亡くなった“チビチリガマ”(洞窟)も当時はまだそのままの状態で、草が生い茂る崖のような斜面を下り、ガマに入った記憶があります。中は暗く、足元には骨が散らばっており、水筒などの生活用品もそのままの状態でした。当時でも既に戦後40年は経っていましたが、戦争の傷跡はそのままでした。
 戦後70年経っても沖縄の現実は変わっていません。基地は相変わらずそのままで、さらに辺野古には新たに基地が作られようとしています。民意は無視され、首相や官房長官は県知事に会おうともしません。補助金も削減されています。“意地の悪い”対応と言わざるを得ません。
 この原稿を書いている現在、沖縄県知事が辺野古への基地移設作業の停止を指示しましたが、防衛省は対抗措置を取ろうとしています。重い荷物を負わせ続けてきてしまっているわたしたちの沖縄に対する深い心配りこそが今求められているのではないでしょうか。

『教区宣教130周年の年に当たって~ロビンソン司祭のことなど~』 

中部教区は今年宣教130周年を迎えました。秋には新潟で記念礼拝が予定されており大変楽しみです。わたしたちの中部教区がカナダ聖公会の伝道によって作られた教区であることは改めて言うまでもありませんが、中部教区への最初の宣教師は英国聖公会宣教協会(C.M.S.)宣教師のファイソン司祭でした。新潟にやって来ました。それが今から130年前の1875年(明治8年)のことです。ファイソン師は7年で新潟を去りましたが、日本聖公会最初期の聖職の一人である牧岡鉄弥司祭がその時同師から洗礼を受けています。
1882年(明治15年)、ファイソン師が新潟を去ってから後の中部教区における伝道がどうであったのか良く分かりません。次に教区の歴史が動くのが1888年(明治21年)です。中部教区へのカナダ聖公会からの最初の宣教師であるJ・C・ロビンソン司祭が名古屋にやって来ました。「カナダ聖公会からの」と言ってもカナダ聖公会の正式なという意味ではなく、これは自発的な宣教師と言っていいでしょう。ちなみに、カナダ聖公会派遣の正式な宣教師はその翌年に来日したJ・G・ウォーラー司祭でした。2年後には長野にやって来て伝道を始めます。
ロビンソン司祭は元々実業学校を出て銀行に勤めていましたが、召命を受け神学校に行き聖職になった人でした。同師は宣教師として日本に行くことをカナダ聖公会に要請しましたが、カナダ聖公会の事情により彼の願いは叶えられませんでした。そこで、おそらく同師の強い願いを受けてだと思われますが、彼の出身校であるウイクリフ神学校の卒業生が伝道協会を結成して、ロビンソン夫妻を日本に派遣することを決めたのでした。
ロビンソン夫妻は1888年来日し、11月には名古屋にやって来ました。東片端(現在の名古屋聖マルコ教会と柳城幼稚園から少し南へ行った所)に住み伝道活動に専念しました。英語学校や老人と孤児のためのホームである幼老院を作ったりしてのマルチ伝道です。すぐ後にはボールドウィン司祭やハミルトン司祭(後の主教)が加わり、一宮や大垣、豊橋への伝道、更には岐阜への応援と、愛岐地区における中部教区伝道の基礎を固めていったのです。講義所もたくさん出来ました。
カナダ聖公会の中部伝道が初めはカナダ聖公会の正式な宣教師ではなく、いわばボランティア伝道者たちの熱意によって始められたことに大変意義を感じます。わたしたちの中部教区はそういう信仰者の熱意によって形成されてきたのです。中部教区はまだまだ完成された教会ではありません。形成途上の教会です。宣教百年の時の標語のように「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り続ける教会です。「千年も一日」のようである神様の前では中部教区の宣教は、始まってまだほんの数時間しか経っていないのです。主のご復活の力に促され、先達の信仰的熱意を継承しつつ、更なる宣教の業へと励みたいものです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)