戦後70年…改めて平和を考える

 今年も8月15日の終戦の日を迎えました。今年は戦後70年ということで、特に平和への思いを多くの皆さんが強く感じておられるのではないでしょうか。戦後70年経ったとはいえ、国内外における戦争の傷跡はいまだに癒えることはありません。戦争とはいつまでも消えることのない大きな苦しみを人々に与え続けるものなのです。ですからどんな理由があっても戦争はしてはならないのです。

 戦後70年間、日本は武力によって直接的に他国を攻撃・侵略はしてきませんでした。これは大いに世界に誇るべきことです。その一番の理由は憲法第9条の存在にあることは言うまでもありません。「…武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という9条を、過去の歴史への反省を込めて日本は堅持し続けてきました。

 ところがその9条がなし崩しにされようとしています。去る7月16日、衆議院において安全保障関連法案が可決され参議院に回されました。政府は今国会会期中にこの法案を可決させようとしています。この法案が可決されますといわゆる「集団的自衛権の行使」が可能になり、自衛隊が海外の紛(戦)争に直接的に関われることになります。つまり、武力によって国際紛争に関われるのです。「戦争が出来るようになる」と言い換えてもいいでしょう。

 この法案は多くの憲法学者がそう言っているように明らかに憲法第9条に違反しています。歴代の内閣も集団的自衛権の行使は違憲であるとしてきました。それにもかかわらず現政権はこの法案を押し通そうとしています。わたしたちはこの法案の廃案を、声を大にして叫ばなければなりません。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)のです。

沖縄に平和を!

 去る6月23日、沖縄教区「慰霊の日」礼拝―戦後70年記念平和礼拝―が、北谷諸魂教会で行われました。戦後70年の節目ということで、日本聖公会の全教区主教が参加し、合わせて、管区主催の「沖縄の旅」の参加者60名、更には大韓聖公会からお二人の主教さんたちとソウル教区オモニ(母)聖歌隊40名の参加者も加わり、多くの方々で慰霊の日の礼拝(聖餐式)をお捧げすることができました。
 司式は植松誠首座主教、説教は磯晴久大阪教区主教でした。磯主教は長年の沖縄との関わりから、沖縄の担ってきた苦難と平和の大切さを語られました。
 昼食後はオモニ聖歌隊のコンサートが礼拝堂で行われ、その後、韓国の方々は平和祈念公園にある韓国人慰霊塔に行き、韓国人犠牲者のために祈りを捧げられました。
 慰霊の日の礼拝を6月23日に行うのは、この日が沖縄戦における日本軍の組織的な戦いが終わった日と位置付けられているからです。しかし、組織的な戦いが終わったということは戦いがすべて終わったという意味ではなく、軍司令官が自決し指揮命令系統が消滅しただけであり、その後も戦いは続き、実質的に戦いが終わるのは9月に入ってからでした。6月23日からそれまでの間に数万人もの人たちが亡くなっているのです。
 沖縄は日本本土防衛のための「捨て石」でした。そのために県民の4人に1人が犠牲になったのです。現在も沖縄は「捨て石」にされていると言えないでしょうか。日本にある米軍基地の74%が沖縄に集中しています。沖縄の戦争はまだ終わっていません。沖縄から基地がなくなり、平和な沖縄が戻ったとき本当の意味の戦後が始まるのです。その責任は本土のわたしたちに負わされているのです。

ポン菓子売りのおばさん

 去る5月29日~6月1日、中部教区「戦後70年韓国平和巡礼」で韓国に行って来ました。日本が犯した負の歴史の事実を現場に立つことによって改めて認識することができました。公式な報告は岩田牧夫さんがしていますのでわたしは少し面白いエピソードを紹介します。
 31日、主日礼拝を大聖堂で終え、西大門刑務所の見学に行きました。1台のタクシーのグループが刑務所のすぐ向かいで降りたのですが、そこからどう行ったらいいのか分かりません。仕方ないので道端でポン菓子を売っているおばさんに刑務所の住所を見せますと、おばさんは説明してくれるのですが当然韓国語ですから分かりません。とにかく言われた方向に向かって歩き出したら、そのおばさんは仕事をほっぽって後を追いかけてきて更に説明してくれるのでした。
 丁度その時心配して探しに来た丁司祭と出会い、事なきを得たのでした。ところがそのおばさんは説明してくれただけでなく、親切にも売っていたポン菓子を”食べなさい”とくれたのでした。
 それに感激したN氏、”これは帰りにポン菓子を買ってあげなければいかん”と、帰りにそのおばさんのところでポン菓子を買い込んだのです。そうしたらそのおばさん、またまたおまけにたくさんのポン菓子をくれたのでした。お蔭でわたしたちも甘いポン菓子のお相伴に与ることができました。たわいのない出来事ですが、ポン菓子売りのおばさんの親切に触れた出来事でした。

国際結婚奮闘記

 去る4月25日、愛岐伝道区婦人親睦会が豊橋昇天教会でありました。午前中、聖餐式を行い、午後、同教会信徒の白藤シンデレラさんのお話を聞きました(「シンデレラ」という名前はお母さんが少女の頃憧れた童話から取ったそうです)。表題はその時の演題です。
 シンデレラさんはソロモン諸島の出身で、2004年に農業支援を行うNGOで同国に行っていた夫の謙一さんと出会い結婚しました。1ヶ月で結婚を決めたそうです。結婚後、謙一さんはソロモン諸島でNGOに従事し、シンデレラさんは来日し、謙一さんの実家に住み日本語の勉強をしました。しばらく別居生活でした。
 その後、長崎県の平戸での生活を経て、現在ご一家は豊橋に住んでおられます。シンデレラさんは大変明るく、前向きで、ソロモン諸島とは生活習慣や文化の全く異なる日本での生活を楽しく「奮闘」しておられるように見えました。
 彼女が心がけていることは「環境適応」「思いやり」「行動」とのことでした。様々な環境に自ら飛び込んで慣れ親しむこと、人々に思いやりをもって接すること、そして、どんなことにも挑戦してみること。彼女のそういう生き方が彼女に接する人々に明るさをもたらしているのだと感じました。
 ソロモン諸島はメラネシア聖公会に属しています。ソロモン諸島の人々の95%はキリスト教徒で、その内45%が聖公会です。最大教派です。
 また、首都のあるガダルカナル島は太平洋戦争の激戦地であったことは良く知られています。そういう意味では日本にも深い関わりのある国と言えます。戦後70年の今年、ソロモン諸島出身であるシンデレラさんにとても興味深いお話を聞く機会が与えられたことは感謝でした。

戦後70年と沖縄

 6月23日は“沖縄慰霊の日”に当たりますが、今年は戦後70年ということで日本聖公会の現職主教全員が沖縄に参集し、平和のために祈ることになっています。
 言うまでもなく太平洋戦争において沖縄は国内で最大の地上戦が行われたところです。そして、死者は日本側だけで約19万人で、うち沖縄関係者の死者は、民間人約9万4千人を含め12万2千人余りと言われています。
 悲惨な戦争の実態はわたしたちがしばしば見たり聞いたりしているところです。中部教区では1986年に教役者がそろって沖縄へのスタディツアーを行い、沖縄が置かれている現実をつぶさに学びました。6月23日の慰霊の日には当時の諸魂教会で沖縄教区礼拝に参加し、信徒の方から沖縄戦での悲劇の証言をお聞きしました。
 また、集団自決で多数の人々が亡くなった“チビチリガマ”(洞窟)も当時はまだそのままの状態で、草が生い茂る崖のような斜面を下り、ガマに入った記憶があります。中は暗く、足元には骨が散らばっており、水筒などの生活用品もそのままの状態でした。当時でも既に戦後40年は経っていましたが、戦争の傷跡はそのままでした。
 戦後70年経っても沖縄の現実は変わっていません。基地は相変わらずそのままで、さらに辺野古には新たに基地が作られようとしています。民意は無視され、首相や官房長官は県知事に会おうともしません。補助金も削減されています。“意地の悪い”対応と言わざるを得ません。
 この原稿を書いている現在、沖縄県知事が辺野古への基地移設作業の停止を指示しましたが、防衛省は対抗措置を取ろうとしています。重い荷物を負わせ続けてきてしまっているわたしたちの沖縄に対する深い心配りこそが今求められているのではないでしょうか。

『教区宣教130周年の年に当たって~ロビンソン司祭のことなど~』 

中部教区は今年宣教130周年を迎えました。秋には新潟で記念礼拝が予定されており大変楽しみです。わたしたちの中部教区がカナダ聖公会の伝道によって作られた教区であることは改めて言うまでもありませんが、中部教区への最初の宣教師は英国聖公会宣教協会(C.M.S.)宣教師のファイソン司祭でした。新潟にやって来ました。それが今から130年前の1875年(明治8年)のことです。ファイソン師は7年で新潟を去りましたが、日本聖公会最初期の聖職の一人である牧岡鉄弥司祭がその時同師から洗礼を受けています。
1882年(明治15年)、ファイソン師が新潟を去ってから後の中部教区における伝道がどうであったのか良く分かりません。次に教区の歴史が動くのが1888年(明治21年)です。中部教区へのカナダ聖公会からの最初の宣教師であるJ・C・ロビンソン司祭が名古屋にやって来ました。「カナダ聖公会からの」と言ってもカナダ聖公会の正式なという意味ではなく、これは自発的な宣教師と言っていいでしょう。ちなみに、カナダ聖公会派遣の正式な宣教師はその翌年に来日したJ・G・ウォーラー司祭でした。2年後には長野にやって来て伝道を始めます。
ロビンソン司祭は元々実業学校を出て銀行に勤めていましたが、召命を受け神学校に行き聖職になった人でした。同師は宣教師として日本に行くことをカナダ聖公会に要請しましたが、カナダ聖公会の事情により彼の願いは叶えられませんでした。そこで、おそらく同師の強い願いを受けてだと思われますが、彼の出身校であるウイクリフ神学校の卒業生が伝道協会を結成して、ロビンソン夫妻を日本に派遣することを決めたのでした。
ロビンソン夫妻は1888年来日し、11月には名古屋にやって来ました。東片端(現在の名古屋聖マルコ教会と柳城幼稚園から少し南へ行った所)に住み伝道活動に専念しました。英語学校や老人と孤児のためのホームである幼老院を作ったりしてのマルチ伝道です。すぐ後にはボールドウィン司祭やハミルトン司祭(後の主教)が加わり、一宮や大垣、豊橋への伝道、更には岐阜への応援と、愛岐地区における中部教区伝道の基礎を固めていったのです。講義所もたくさん出来ました。
カナダ聖公会の中部伝道が初めはカナダ聖公会の正式な宣教師ではなく、いわばボランティア伝道者たちの熱意によって始められたことに大変意義を感じます。わたしたちの中部教区はそういう信仰者の熱意によって形成されてきたのです。中部教区はまだまだ完成された教会ではありません。形成途上の教会です。宣教百年の時の標語のように「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走り続ける教会です。「千年も一日」のようである神様の前では中部教区の宣教は、始まってまだほんの数時間しか経っていないのです。主のご復活の力に促され、先達の信仰的熱意を継承しつつ、更なる宣教の業へと励みたいものです。
司祭 ペテロ 渋澤 一郎
(名古屋聖マルコ教会牧師)