神の栄光を表すため

 社会福祉法人岐阜アソシア(中部教区の関連法人)は、視覚障害者とともに生きる社会を目指して、点訳・音声訳図書の製作と貸出、点字・歩行・IT機器の訓練、外出支援などを行っています。
 中部教区がこうした働きを開始するきっかけとなったのは濃尾地震でした。1891年10月28日、岐阜県本巣郡(現:本巣市)を震源とするマグニチュード8の地震が起き、死者7273人、全壊・焼失家屋14万2千戸という甚大な被害が発生しました。
 岐阜聖公会(現:岐阜聖パウロ教会)は、この地震から遡ること1年前にアーサー・フレデリック・チャペル司祭によって設立され、会堂も建てられましたが、震災によって焼失しました。地震の後、岐阜聖公会の礼拝は仮設の小屋で継続しつつ、被災者支援活動を開始しました。眼病を患っていた森巻耳伝道師が中心となって被災した視覚障害者の支援に注力することになり、岐阜鍼按練習所を開設します。3年後には岐阜聖公会訓盲院を創設しました。
 1940年になって訓盲院の学校教育機能は岐阜県に移管されることになりました。そして1941年、岐阜聖公会は財団法人岐阜訓盲協会を新たに設立して、訓盲院のその他の社会事業を引き継ぐことになりました。これが現在の岐阜アソシアです。
 このように、岐阜聖公会の設立とほぼ同時に始まった視覚障害者支援の取り組みは、一方では岐阜県立岐阜盲学校となり、もう一方は民間の社会福祉団体となりました。この岐阜アソシアは、現在も教区主教が理事長となり、チャプレンが派遣され、中部教区としてその運営に携わっています。盲学校は公立ですので、組織的には完全に聖公会から離れています。しかし、岐阜聖公会の設立者の想いは、今もしっかりと継承されています。
 盲学校の創設者であった森巻耳先生は、ご自身の失明について、「これ皆神の聖旨なり。吾を盲人社会に用いて、神の栄えを表さしむなり」と受け止めました。そして、全人教育の場として盲学校を設立しました。それは、人は誰もが神の栄光を表す者として堂々と生きるべき存在であり、視覚障害を理由に社会から排除されてはならない、という理解がその根底にあったからでありましょう。
 県立岐阜盲学校の玄関には森先生の銅像があり、その横には、「敬神愛人」の額が掲げられています。これは公立学校である盲学校の現在の校訓です。また、校章には十字架がデザインされています。この校章は岐阜聖公会が盲学校を運営していた頃に制定されたものですが、今もなお大切に用いられています。こうしたことからも、学校設立の源流である岐阜聖公会の設立者たちの想いがいかに大切にされているかが分かります。
 このように、岐阜における聖公会の働きは、時代に応じて形を変えながらも、当時の設立者たちの想いと共に受け継がれています。中部教区は来年(2025年)宣教開始150周年を迎えますが、先人たちの想いを、私たちを取り巻く現在の時代環境を見据えながら、大切に引き継いでまいりたいと思います。

司祭 ヨハネ 相原太郎
(岐阜聖パウロ教会牧師)

人智では計り知ることは出来ず

 1890年は岐阜聖パウロ教会の設立年ですが、大垣聖ペテロ教会(以降、ペテロ教会)の基礎が築かれた年でもあります。この年、A・F・チャペル司祭らは、岐阜県各地で集会を行い、特に大垣には力を入れて講義所を設置し、後に九州教区で司祭となる本田清次伝道師が定住を開始しました。
 翌年、濃尾地震が起き、岐阜も大垣もその建物を焼失してしまいます。岐阜では仮小屋にて礼拝を再開するとともに、被災した視覚障害者の支援を開始しました。大垣では1年後の1892年に仮会堂を建て、大垣聖公会と名付けられました。
 仏教が強固な大垣での宣教には多くの困難があったようです。当時の状況について、横浜教区で従事された後に大垣に来られた田中則貞伝道師は『基督教週報』で次のように報告しています。「東本願寺派の盛りなる地とて基督教を顧るものは殆どなき有様にて、寄らず触らず敬して遠ざけると云ふ有様なれば、伝道は非常に困難なり」、「小生は房州に伝道せし時と比較すれば、殆ど無人島に居る心地せり」。
 こうした中での信徒の働きは注目に値します。「祈祷会は信者交る交る司会奨励いたし居り之は必ず10名以上の出席者有之候」「毎週2日の説教会も半ば信徒の働きといたし居り候」「毎月1回信徒の宅に於て祈祷書講義会など開き居り候」「教会へ出で渋り居る者も此集会へは喜んで出席しいたし候」。今から100年以上前の様子ですが、信徒による礼拝や集会が生き生きと行われていたことが窺えます。信徒主体の集いにこそ、ペテロ教会の礎があったと言っても過言ではありません。
 現在ペテロ教会は中部教区において人数的に最も小さい規模の教会共同体の一つです。しかしながら毎主日の礼拝を信徒が中心になって守り続けておられます。その営みは実に100年以上前から培われてきたものであるわけです。
 ペテロ教会の特筆すべき活動に「大垣市内キリスト教信徒会」があります。1971年に始まったこの会は、幅広い教派が参加しているもので、毎月各教派が持ち回りで集会を行なっています。ここでも注目すべきなのは、この会が「信徒会」の名前の通り信徒によって運営されているという点です。そしてペテロ教会の信徒はこの交わりを中心的に担ってこられました。
 ある信徒の方が、ペテロ教会の宣教開始75年目に際して次のように書いておられます。「この土地に教会を設けられて以来、厳然としてこの教会を維持し給うその大御心、御計画は人智では計り知ることは出来ず、一つの魂をもおろそかにしない神の恩寵を思うと、ただ熱い涙が袖をぬらすばかりである。」「私共はいかに年老いて目が曇っても、霊眼をぱっちりと開いていついつまでも、十字架よりしたたる血汐を見つめ、神が我ら人類に何をなし給うたかを常に考えたいものと思う。」
 ペテロ教会は、定住教役者のいない時代が長く、人数的に大きな教会となったこともありません。しかしながら信徒が主体的に教会を担っておられ、その熱い信仰が受け継がれています。そのようにして130年もの間、この地に信仰が継承されていることに、改めて神の計り知れない働きを感じるところです。


司祭 ヨハネ 相原太郎
(岐阜聖パウロ教会牧師)

取り壊された礼拝堂

2019年の春、岐阜の教会で働き始めて事務所を整理していると、一つの茶封筒の中からジョン・マキム主教による岐阜聖公会の聖堂聖別の証(1908年10月18日付)と岐阜県知事によるB4版1枚の譲渡令書(1945年4月25日付)が出てきました。
 譲渡令書は、1945年5月5日までに、つまり10日以内に、教会の建物4棟を岐阜県に譲渡することを、防空法に基づいて命令する、というものでありました。これは貴重な文書ではないかと思案していたところ、大変偶然なことに、岐阜市主催で行われる平和資料展の企画を担当している市民団体「岐阜空襲を記録する会」から、空襲時の資料を探しているとの電話がありました。
 岐阜空襲は1945年7月9日午後11時過ぎのこと。米軍によって岐阜市中心部に1
万発以上の爆弾が投下され、およそ900人が犠牲になりました。毎年7月のこの時期、岐阜市では空襲に関する資料展を開催しています。そして同年の特別企画として、空襲時の神社、お寺、教会の状況について取り上げることになったとのことでした。
 譲渡令書の話をすると、すぐに教会に現物を見に来られ、早速資料展での複写の展示が決まり、また各方面にこの情報が流されました。令書の法的根拠となっている防空法に詳しい大学研究者からも連絡があり、この文書が全国的にも類を見ない貴重なものであることが分かりました。岐阜新聞の記者も取材に来られ、岐阜新聞の1面トップ及び社会面で大きく取り上げられました。
 この令書は、空襲による市街地での延焼を食い止めるべく防火帯を造ることを目的に、建物を取り壊すために立ち退きを命じるものでした。これにより、当時司牧しておられた小笠原重二司祭(後の教区主教)は岐阜県の美濃太田に疎開し、礼拝は、岐阜市内の信徒宅で行われることになりました。
 実際の岐阜空襲は防火帯で延焼を防ぐレベルではなく、岐阜市中心部の全域が焼け野原になりました。現在の岐阜聖パウロ教会の礼拝堂は、戦前からあった大垣聖ペテロ教会の礼拝堂を戦後になって移築したものです。
 人々の祈りと奉仕によって建てられ、マキム主教によって聖別されたかつての礼拝堂。多くの人々がみ言葉を聞き、教会附属の岐阜明道幼稚園の園児たちが元気に聖歌を歌い、同じく教会の事業であった岐阜聖公会訓盲院の生徒たちが祈った、その礼拝堂には、そこに集う一人ひとりの固有の物語と共に、大切な想いが刻み込まれていたはずです。しかし、1枚の令書はそのようにして建物に刻まれていた想いを、上から塗りつぶすように壊してしまいました。
 主イエスは、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出すように、私たち一人ひとりの名前を呼ばれ、それぞれの固有の物語を聞いてくださいます。このような主イエスの働きは、譲渡令書によってなされた上からの一方的な剥奪とはまったく反対の事柄です。
 ともすると私たちの宣教も空の上から人の動きを見るように語ることがあるかもしれません。しかしながら、私たちは、むしろ地に立って一人ひとりの物語を聞いていきたいと思うのです。

                             執事 ヨハネ 相原太郎
                          (岐阜聖パウロ教会 牧師補)