『イエスの福音』

新しい世紀4年目となっても、残念ながら憎しみ、暴力、混乱、破壊が荒れ狂う世界が続いています。また幼児虐待など弱い者への暴力も深刻な問題となっています。逆に同性愛の結婚の承認、同性愛者の主教の誕生など、新しい世界の幕開けにつながるような希望に満ちた出来事も起こっています。今はまさに、ポストモダンの時代、真剣に自分たちが何に基づいて立っているのか、どのような方向へ向かっているのかを考えなくてはならない時代なのだと実感させられます。
私たちが立つ場、そこから行動を始める場とは何でしょうか。それは今もイエス・キリストの福音であり、またそれを常に再確認し続けることでしょう。そのように記すと保守的・キリスト教中心主義的・内向的教会論のように聞こえますが、キリスト者である以上、それは欠くことの出来ない事柄です。すなわち、課題は、どのような福音に立ち、どのように再確認し続けるのかというモダン的問いに基づいているのです。
イエス・キリストの福音とは何であったか。これは簡単なようで難しい問いです。福音を復活に集中させ、悔い改めてイエスをキリストと信じる人々すべてに罪の許しを与えるという伝統的な立場から、福音をイエスの生涯に集中させ、小さくされたもの弱くされたものを最初にかつ偏愛的に救う出来事であるという立場まで、その範囲は広く、それぞれにそれなりの意義があります。しかし、イエスの復活に集中しようが、イエスの生涯に集中しようが、イエスの福音はそれら人間の思惟を超越している事柄です。それは人間が論理的にも感覚的にも常識的にも知ることの出来ないような形で、神が今もっとも苦しむ人に光を当てる出来事です。
イエスの福音を譬えるテキストとして99匹と1匹の羊の話が有名です。問題は、それを本当に受け入れられるのかということです。20世紀というコンテクストの中でその譬を考えますと、忘れてはならない事柄があります。それは20世紀最悪の人物の一人ともいえるアドルフ・ヒトラーです。ヒトラーについて詳細な説明は必要ないでしょうが、確認しておくべきことがあります。彼は不正があったとしても選挙と議会制政治という合法的手段、現在でも人間が理性的な機構として保持している手段を通じて独裁者となったということです。多くの人がその言動に幻を見、彼に救いを見たのです。しかし、その幻、救いから生み出されたのは、歴史に負の遺産として残る抑圧と暴力と破壊でした。その時、人間の良心に芽生えた事柄が、このヒトラー一人いなければ、平和が訪れるのではという考えでした。しかし、ヒトラー暗殺計画は、40回以上計画されたと言われますが、一回も成功しませんでした。決して許されることのないヒトラーであっても、イエスの福音という観点から見れば、見捨ててもいい、殺してしまってもいい羊ではなかったということかもしれません。何故ならば、その時のイエスは傍観者ではなく、収容所、ガス室、瓦礫の下、戦場の中で不当に抑圧され殺される人、一人ぼっちで死んで行く人と共に苦しみ、死と苦しみを深く理解しておられたからです。イエスは今もそのように苦しみながらも、誰一人も切り捨てない世界の到来を叫び続けている。そこにイエスの福音がある。そのように改めて痛感します。現在の我々が置かれている状況では、信徒の減少や会計上の問題の方が深刻な課題であるかもしれません。しかし、私たちの場としての福音を改めて確認すること、それが新しい年を迎えても変わらない課題であると思います。
司祭 バルナバ 菅原 裕治
(名古屋柳城短期大学教員・チャプレン)

『変わらない希望』 

二○○一年が終わり、私たちは、二一世紀に入って二回目の大斎節を迎えようとしています。子どもの頃は、二一世紀という時代は、全く新しい世界のように思えました。しかし、二〇〇一年を振り返ってみると、それ以前と同じようにテロと報復など暴力が手段として用いられる一年であり、また新しい形態の戦争が始まった年とも言われました。二一世紀の最初の年が、そのような年であったことは、全ての人にとって悲しむべきことです。しかし、それは、今まで存在した様々な人々の苦しみと悲しみが放置されていた結果に他ならないでしょう。正義、大義、秩序、進歩、グローバルなど様々な輝かしい言葉の下で、数多くの人々の苦しみと悲しみが、通奏低音のように存在しつづけていたからでしょう。
大斎節は、イエス・キリストの受難の意味を改めて心にとめ、そこからキリスト者ひとりひとりがそれぞれの歩みと志を新たにする時です。イエス・キリストの受難の意味とは何でしょうか。それについての答えは、様々なことが考えられます。しかし、私にとっては、「全ての人間を人間として受け入れる」という現象に他なりません。イエス・キリストは、現代と同じように苦しみと悲しみが満ち溢れている世界にあって、苦しみ悲しむ人々を受け入れた方、そしてそのような悲劇をもたらしている人々をも「人間」として受け入れてくださった方です。宗教的権威、経済的特権、政治的権力に固執する人々は、全ての人間を人間として受け入れようとなさるイエス・キリストの死を求めます。しかしイエス・キリストは、そのような人々をも十字架の死によって人間として受け入れたのです。十字架刑によって強制的に開かれた両手は、それを象徴しているように思えます。そしてそこに苦しみと悲しみを克服する新しい世界、全ての人間が互いに人間として受け入れあうことの出来る新しい世界の出発点が示されていると思うのです。
「マルコによる福音書」は、一五章三八節で、イエス・キリストが十字架上で息を引き取られた後、すぐに聖と俗を区分する「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記しています。それは、十字架という現象による新しい世界の開始を象徴しています。死刑を執行したローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言葉を発します。それが信仰告白か嘲弄かという言葉の真意はわかりませんが、物語の中で、イエス・キリストを神の子と明言した登場人物・人間は彼だけです。その意味では、彼の言葉は、新しい世界が始まった証に他なりません。十字架を神学の中心に据えているパウロは、「ローマの信徒への手紙」の一五章七節で「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と命じています。それは教会が新しい世界に生きる存在であることを示しています。
十字架以後も世界には様々な苦しみと悲しみが満ち溢れています。しかし、それはイエス・キリストが今も十字架上ですべての人を受け入れ続けていることを意味しています。だからこそ私たちにとってイエス・キリストの十字架の姿は、私たちの模範であり、変わらない希望として存在するのだと思います。
執事 バルナバ 菅原 裕治
(名古屋柳城短期大学教員・チャプレン)