「交じり合う教会」というイメージが思い浮かんだのは2008年度の「マルコ教会ビジョン」を考えていた時で した。
ルカ福音書の14章15節から24節の「大宴会のたとえ」が目の前にありました。「ああ、そういうことなんだ」としばし茫然としました。
そのたとえは、イエスと食事を共にしていた客の一人が、イエスに「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言いましたので、イエスは神の国を大宴会にたとえて話されます。
家の主人は大勢の人を宴会に招きますが、招かれた人は世間的なことを言い訳にして断ります。怒った主人は僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて 来なさい」と言います。さらに、まだ席があるというので主人は「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。
ああそうか、神の国はまぜこぜなんだ。貧しい人、体や精神に障がいのある人は勿論のこと、通りや路地裏に居る人も連れて来るなら、いろんな人がいるだろう。無頼の人、野宿の人もいて、外国人もいるはずだ。
こんなふうに「交じり合って」いるのが神の国だとしたら、教会もまぜこぜに「交じり合って」いるのがいいに違いない。
そうして、教会ビジョンの項目の一つに「交じり合う教会」が加えられました。
以前からマルコ教会は「交じり合い」が進行していました。
毎週木・金曜日昼の「聖堂で聖歌を歌おう」には知的障がいのある若者たちや近所の人、信徒が交じり合って聖歌を歌っています。
毎週水曜日は野宿生活の人たちにシャワーサービスを提供します。昼ご飯をご近所のボランティアの方々、信徒が作り、みんなで交じり合ってホールで頂きます。餅つきやお花見会、忘年会等でも交じり合います。バザーは交じり合いの力が最大に発揮される場です。
毎週水曜日夜の聖研には、いろんな人が交じり合って喧々諤々です。鉄道マニアの青年、老弁護士、起業家の女性、シャワーサービスの常連、信徒でない人、他教派の人たち、教区の他教会の人たちが交じり合ってきました。
これらの「交じり合い」が呼び水になって、礼拝にも「交じり合い」が現れてきています。
信じる人も信じない人も交じり合って聖堂を「いっぱい」にできれば素晴らしいです。
「交じり合う教会」には核となる信徒が求められます。幸いなことに、マルコ教会には自分のビジョンを持って、主体的に働き、小さき者のところへ降りていける人たちがいます。
「交じり合う」ことは面倒なことです。戸惑いがあり、軋轢が起こります。排除の論理が働くこともあります。
けれでも、このような困難そのものの中にこそ「『神の国』をあらかじめ示す地上の姿」にふさわしい教会の新しい可能性と希望がある、それが「交じり合う教会」のイメージなのです。
執事 ヨハネ 大和田 康司
(名古屋聖マルコ教会牧師補)