『洗礼から陪餐へ』

洗礼から陪餐へ…洗礼の意義の再確認
去る5月27日から開催された日本聖公会第61(定期)総会において、「日本聖公会祈祷書一部改正の件」が決議(協賛)されました。改正の主たる文言は、「洗礼を受けた者は陪餐できる」です。現在の祈祷書では「堅信を受けた者は陪餐することができる」となっていますので、原則的に堅信を受けなければ陪餐できませんが、今回の決議により「洗礼によって陪餐できる」ということになります。
祈祷書の教会問答には、「キリストがすべての人の救いのために福音のうちに自ら定められた聖奠は何ですか」という問いがあり、答えは、「洗礼と聖餐です」とあります。つまり、すべての人の救いにとって必要な聖奠は「洗礼と聖餐」なのです。ですから、洗礼を受けた人が堅信を経ることなく陪餐できるということは自然なことといえます。
この改正のポイントは堅信の意義を後退させたということではなく、洗礼の意義の重要性を再確認したということです。わたしたちはだれでも洗礼によって神の子とされ、神の民に加えられ、イエス様の聖餐にあずかることができるのです。

堅信の必要性
では堅信は必要ないのでしょうか。全くそうではありません。堅信は改正の文言にもありますように、「聖霊により日々強められ、この世に遣わされる」ために必要な大切な聖奠的な式なのです。「洗礼さえ受けていれば堅信は必要ない」ということでは決してないのです。洗礼を受けたキリスト者はこの世に遣わされて、この世でキリスト者として生き、キリストを証し、宣教の業を行っていきます。そのためには聖霊による強めや促しが必要になってきます。その強めをいただくのが堅信式になるのです。ですから、受けても受けなくてもいいというものではなく、この世界でキリスト者として生きて行くために必要な式なのです。
わたしは「洗礼・陪餐・堅信」を一体のこととして理解する必要があると考えます。ですから、現在もそういう場合が多くありますが、洗礼と堅信が同時に行われ、そして陪餐という形が理想的とも言えるでしょう。もちろん、それが事実上不可能な場合もありますが、仮に、「洗礼→陪餐」の場合でも、洗礼の後、出来るだけ早い時期に堅信式が行われるべきであると考えます。

これからの方向
今回第1回目の決議(協賛)がなされましたが、祈祷書の改正は総会で2回の協賛が必要になります。次の総会までの2年間で様々な課題を解決しなければなりません。たとえば、現在受聖餐者の定義、統計表のこと、幼児の陪餐年齢について、幼児の時に洗礼を受け成人になっている人の陪餐はどうするのか、法規の改正、献金の問題、他教派からの人たちの場合、等々いろいろあります。
それらの課題を整理し、ある一定の方向付けをしてから実際には施行されることになります。主教会でもこの問題に対する教書やガイドラインが必要だと考えています。Q&Aも必要でしょう。この2年間で改正の意義と課題を周知徹底し、皆様にご理解をいただきながら施行へと向かうことになります。

主教 ペテロ 渋澤一郎