『恐ろしかったからである』 

「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
(コリント一15・20)

主のご復活をお喜び申し上げます。
聖パウロは、「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(コリント一15・14)と言っています。わたしたちの信仰も宣教も教会も、すべてイエス・キリストの復活の上に乗っていることを復活日に当たり改めて確認いたしましょう。
今年の復活日の福音書聖書日課はマルコによる福音書から選ばれています。マルコ福音書の復活の記事には「ご復活おめでとうございます」という状況はどこにもありません。福音書は、「(婦人たちは)恐ろしかったからである」で終わっています。そのあとイエス様が復活したとは何も書いてありません。何とも奇妙な終わり方です。
しかし、その奇妙な終わり方が逆にイエス様の復活をより現実味あるものにしているのです。婦人たちは何が恐ろしかったのでしょうか。墓にイエス様の遺体がなかったことでしょうか、白い衣を着た若者(天使)がいたことでしょうか、「イエス様が復活した」と、想像も出来ないことを告げられたからでしょうか。おそらくそれらすべてが彼女たちにとっては恐ろしい出来事だったのです。
婦人たちが震え上がり、正気を失い、恐ろしかったのはまさに神様の業―想像もできない、得体のしれない不気味な出来事に触れたと感じたからでした。丁度、マリアがイエス様の誕生を天使から告げられた時に感じたのと同じ恐れです。
復活の出来事は人間業ではありません。まさに神(の)業です。天使は、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げましたが、「復活なさって」という言葉はイエス様がご自分で復活したと読めますが、直訳すると、「復活させられて」という受身形です。だれに復活させられたのでしょうか。言うまでもなく父なる神様にです。父なる神様がイエス様を復活させられたのです。
わたしたちは今日イエス様のご復活をお祝いし、喜びこそすれ恐ろしいとは感じません。しかし復活とは本当は恐ろしいことなのです。「死んだ人が復活させられる」―これ以上にない神の業であり、わたしたちも婦人たちと同じように恐ろしさを共有するのです。
しかし、わたしたちはイエス様のご復活をただ恐ろしがっているだけではもちろんありません。神様がイエス様を復活させられたのは、復活されたイエス様を信じる者に同じように復活の命をくださるためでした。わたしたちは洗礼によってキリストと共に死に、復活の命に生かされています。人間の次元をはるかに超えた、その偉大な恵みに感謝し、永遠の命に生きる者としてイエス様のご復活をお祝いするのです。
終わりに、教区基金造成募金に対する皆様のご協力に改めて感謝申し上げます。2月末現在で2100万円を超える献金をお献げいただいています。新しく聖職候補生(神学生)も生まれました。各教会の補修のためにも用いることができます。新しい宣教活動も視野に入れていきたいと思います。引き続き皆様のご協力をお願い申し上げます。

主教 ペテロ 渋澤一郎