アントニー・デ・メロ師(イエズス会士、同会霊性指導者)の書いたものに、このような話があります。
ある大修道院長がヒマラヤ山中のグルー(導師)のもとにやって来た。「何をお求めかな?」グルーは尋ねた。修道院長は最近の僧院の打ち沈んで静まり返った状況を説明した。「僧院がこのような有り様に変じたのは、私どもに何かの罪が原因でしょうか?」と。「さよう、知らずにいるという罪ですな」。「して、それはいかような罪なのでございましょうか?」。「あなた方のなかの一人はメシアでいらっしゃる。しかも姿を変えておられる。あなた方はそのことを知らずにいる」と。僧院に帰った修道院長は修道僧を一堂に集めて、グルーの語ったことを説明した。一同は信じられぬという表情で互いに見回した。メシアが?ここに?メシアが姿を変えてここにおられても、この人だと特定出来そうには思えず、そこで彼らは会う人ごとに、「この人こそメシアかも知れないのだ」と自分に言い聞かせた。このように過ごすうちに、僧院の雰囲気は活気に溢れ、喜びに満ちたものとなった。礼拝堂には再び賛美と喜びの歌が響くようになった。『蛙の祈り』(女子パウロ会)
顕現とは神の栄光、聖なる輝きの現れですが、神の手がこの世界のただ中にあることをどのようにして人は知るのでしょう?私たちは主イエスの降誕によって神の顕現の出来事に出会いますが、いかにして神の顕現にふれるのでありましょう?
アダムやヨナは神から逃げようとします。同様に私たちも顔を避けようとしています。近代化の中で神を殺そうとし、また、世俗化の中に身を隠そうといつも逃げ続けていると言っても過言ではありません。
一方、旧約の詩人は歌います。「どこに逃れれば、み顔を避けることができよう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも見よ、あなたはそこにいます。」神の目、神の手から逃れることはできず、更に「あなたは、わたしの内臓を造り、母の胎内にわたしを組み立ててくださった」(詩139編)
まさに、創造の神秘です。自分の命の中に神の手があり、何者も絶対的に知られ、何処にいようと、神の手の中にある、との詩人の魂の叫びです。また聖書の真髄でもあります。即ち、神が顕現するのであって、私が会うのではなく、自分が知る以前から既に、すべてを知っておられる。この洞察や気付きは、圧倒的な神体験、神の顕現との出会いなのです。神がおられる。しかもその目撃者は臨在し、自分の命の中に神がおられる。他者の命の中にもおられる、すべて命あるものの中におられる、それを知ったが故の緊張こそ、信仰に生きることの内容なのです。なので、祈らずにはおられないのです。
「子どもを見つめる目や話す言葉が愛によって味づけられたものでありますように、あなたの愛で私たちの心を溢れさせてください。一人ひとりのうちにある大きなものや伸びていく力を見つめ、感じることができますように。また、待つことのできる心とすべてを受容する心をお与えください…」と。 (教師の朝の祈り)
司祭 エリエゼル 中尾志朗
(一宮聖光教会牧師)