2018年2月11日(日)付『岐阜新聞』に、飛騨市長である都竹淳也さんは、このような文章を寄せておられます。
「私の次男は最重度の知的障がいのある自閉症児である。特別支援学校中学部の1年生。多くの方々のご支援をいただきながら暮らしている。次男の障がいが分かったのは2歳の頃だ。言葉の遅れなどが顕著で、不安に駆られ、医師の診察を受け、自閉症との診断を受けた。今も困難なことも多いが、我が子はかわいい」「次男のいいところはどこだろうと毎日見ているうちに、同じように職場の部下や同僚を見るようになり、強みを伸ばす組織運営をするようになった。弱い立場の人たちを意識するようになり、障がい児者だけでなく、病気や生活困窮、ひとり親家庭など、厳しい状況にいる人たちを助けたいと強く思うようになった。そうした頃、県職員だった私は、願い叶って障がい児者支援の仕事に就くことができ、重症心身障がい児者を医療面から支える仕事に打ち込んだ。
市長となった今も、弱い立場の方々の支援は市政の最重点だ。こうした分野に取り組むのは、誤解を恐れずに言えば、自分の子どものためである。公職にある自分が支援を充実させれば、多くの方々が救われる。それは次男が私をしてなさしめたことであり、この子が世の中のお役に立てたことになるからだ。このことだけは徹底して親ばかでありたいと思う」
確かに、主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時に聴いた天からの言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)でした。イエス・キリストも私たち一人ひとりを「愛する子」として徹底して大切にしてくださった。そのような愛をもって、私たちも、私たちの隣り人のために、まるで親ばかのように無条件で愛することが求められているのだと思うのです。