2019年の春、岐阜の教会で働き始めて事務所を整理していると、一つの茶封筒の中からジョン・マキム主教による岐阜聖公会の聖堂聖別の証(1908年10月18日付)と岐阜県知事によるB4版1枚の譲渡令書(1945年4月25日付)が出てきました。
譲渡令書は、1945年5月5日までに、つまり10日以内に、教会の建物4棟を岐阜県に譲渡することを、防空法に基づいて命令する、というものでありました。これは貴重な文書ではないかと思案していたところ、大変偶然なことに、岐阜市主催で行われる平和資料展の企画を担当している市民団体「岐阜空襲を記録する会」から、空襲時の資料を探しているとの電話がありました。
岐阜空襲は1945年7月9日午後11時過ぎのこと。米軍によって岐阜市中心部に1
万発以上の爆弾が投下され、およそ900人が犠牲になりました。毎年7月のこの時期、岐阜市では空襲に関する資料展を開催しています。そして同年の特別企画として、空襲時の神社、お寺、教会の状況について取り上げることになったとのことでした。
譲渡令書の話をすると、すぐに教会に現物を見に来られ、早速資料展での複写の展示が決まり、また各方面にこの情報が流されました。令書の法的根拠となっている防空法に詳しい大学研究者からも連絡があり、この文書が全国的にも類を見ない貴重なものであることが分かりました。岐阜新聞の記者も取材に来られ、岐阜新聞の1面トップ及び社会面で大きく取り上げられました。
この令書は、空襲による市街地での延焼を食い止めるべく防火帯を造ることを目的に、建物を取り壊すために立ち退きを命じるものでした。これにより、当時司牧しておられた小笠原重二司祭(後の教区主教)は岐阜県の美濃太田に疎開し、礼拝は、岐阜市内の信徒宅で行われることになりました。
実際の岐阜空襲は防火帯で延焼を防ぐレベルではなく、岐阜市中心部の全域が焼け野原になりました。現在の岐阜聖パウロ教会の礼拝堂は、戦前からあった大垣聖ペテロ教会の礼拝堂を戦後になって移築したものです。
人々の祈りと奉仕によって建てられ、マキム主教によって聖別されたかつての礼拝堂。多くの人々がみ言葉を聞き、教会附属の岐阜明道幼稚園の園児たちが元気に聖歌を歌い、同じく教会の事業であった岐阜聖公会訓盲院の生徒たちが祈った、その礼拝堂には、そこに集う一人ひとりの固有の物語と共に、大切な想いが刻み込まれていたはずです。しかし、1枚の令書はそのようにして建物に刻まれていた想いを、上から塗りつぶすように壊してしまいました。
主イエスは、羊飼いが自分の羊の名を呼んで連れ出すように、私たち一人ひとりの名前を呼ばれ、それぞれの固有の物語を聞いてくださいます。このような主イエスの働きは、譲渡令書によってなされた上からの一方的な剥奪とはまったく反対の事柄です。
ともすると私たちの宣教も空の上から人の動きを見るように語ることがあるかもしれません。しかしながら、私たちは、むしろ地に立って一人ひとりの物語を聞いていきたいと思うのです。
執事 ヨハネ 相原太郎
(岐阜聖パウロ教会 牧師補)