去る10月24日の主教按手式・就任式に際しましては、みなさまのお祈り、ご協力を賜り、誠にありがとうございました。新型コロナウイルス感染症蔓延のため2度も延期されましたが、管区、教区のみなさまの大変なご準備により、無事に行うことができました。当日は、日本の主要教派の大司教、議長先生方にもご臨席賜り、また、世界各地からも多数、祝福のメッセージをいただきました。私たち中部教区が、日本聖公会のみならず、世界の聖公会(アングリカン・コミュニオン)や、教派を超えたエキュメニカルなつながりの中に生かされていることを、あらためて実感することができました。
10年の長きに亘り教区をお導きくださった渋澤一郎主教さま、この7カ月、不安の中にある私たちの中部教区を管理くださいました入江修主教さまに、心からの感謝を申し上げます。また、私は、当面の間、立教大学等の働きも継続しますが、土井宏純司祭には主教補佐職をお願いするのをはじめ、中部教区教役者、信徒のみなさまのお支えをいただきながら、精一杯に主教職を担っていきたいと考えています。どうぞ、よろしくお願いいたします。
さて、私ごとになりますが、私の末の息子は、岡谷の病院で生まれました。帝王切開でしたが、生まれた際に息をしておらず、重度の仮死状態でした。すぐにICUで治療が行われましたが、お医者さんから見せられたMRIの脳の写真は真っ白で、先生からは、一次的な治療はできず、二次的な治療しかできないことを告げられました。
そのすぐ後の主日の福音書は、漁をしていたペテロたちが、イエスさまから弟子として招かれる場面でありました。その福音を黙想していた時に、ひとつの気づきが与えられたのです。「人をとる漁師が持つ網とは、どんな網なのだろうか」と。「人をとる漁師が持つ網」は、神さまの愛の糸で紡がれていて、その網からは、誰ひとり決してこぼれ落ちることのない網なんだと。たとえ私の息子が、これからさまざまな重荷を背負うことになったとしても、その愛の網の中で、しっかりと支えられて、決してこぼれ落ちることはないのだと。
イエスさまは、そんな「網」を持つ漁師になれと、弟子たちに、そして私たちに命じられたのではないか。そして、ご復活なさったイエスさまが、
ペテロたちに漁をしてこいと言われたのは、弟子たちが、しっかりと、その「網」を持つ者となっているかどうか、確かめられたのではないか。事実、網は153匹もの大きな魚でいっぱいでした。しかし、それほど多くとれたのに、網は破れていなかったのです。主イエスは、弟子たちが確かに誰ひとりこぼれ落ちることのない愛の網を持つ者となったことを確かめられて、天へと昇られた。そんな気づきを与えられたのでした。
私たちが、主に従い生きること、すなわち神を愛し、人を愛する者となる、ということは、このような意味で、「人をとる漁師となること」なのだと思います。「そこから誰一人としてこぼれ落ちることのない網を持つ者となれ」。それが主の教えです。この網を精一杯に張ることこそが、主イエス・キリストの弟子たることのしるしに他なりません。
みなさんもまた、主から召された「人をとる漁師」です。神さまの愛と信頼の糸で紡がれた網を持つ漁師です。そこからは誰一人としてこぼれ落ちることがないように、しっかりと紡がれた網を持つ者です。みなさんお一人おひとりが持つ網と網が結ばれて、そしてついには「中部教区」という一つの豊かな神さまの愛の交わり、〈ネットワーク〉となることができますように、ご一緒に祈り、働いてまいりましょう。