二○○一年が終わり、私たちは、二一世紀に入って二回目の大斎節を迎えようとしています。子どもの頃は、二一世紀という時代は、全く新しい世界のように思えました。しかし、二〇〇一年を振り返ってみると、それ以前と同じようにテロと報復など暴力が手段として用いられる一年であり、また新しい形態の戦争が始まった年とも言われました。二一世紀の最初の年が、そのような年であったことは、全ての人にとって悲しむべきことです。しかし、それは、今まで存在した様々な人々の苦しみと悲しみが放置されていた結果に他ならないでしょう。正義、大義、秩序、進歩、グローバルなど様々な輝かしい言葉の下で、数多くの人々の苦しみと悲しみが、通奏低音のように存在しつづけていたからでしょう。
大斎節は、イエス・キリストの受難の意味を改めて心にとめ、そこからキリスト者ひとりひとりがそれぞれの歩みと志を新たにする時です。イエス・キリストの受難の意味とは何でしょうか。それについての答えは、様々なことが考えられます。しかし、私にとっては、「全ての人間を人間として受け入れる」という現象に他なりません。イエス・キリストは、現代と同じように苦しみと悲しみが満ち溢れている世界にあって、苦しみ悲しむ人々を受け入れた方、そしてそのような悲劇をもたらしている人々をも「人間」として受け入れてくださった方です。宗教的権威、経済的特権、政治的権力に固執する人々は、全ての人間を人間として受け入れようとなさるイエス・キリストの死を求めます。しかしイエス・キリストは、そのような人々をも十字架の死によって人間として受け入れたのです。十字架刑によって強制的に開かれた両手は、それを象徴しているように思えます。そしてそこに苦しみと悲しみを克服する新しい世界、全ての人間が互いに人間として受け入れあうことの出来る新しい世界の出発点が示されていると思うのです。
「マルコによる福音書」は、一五章三八節で、イエス・キリストが十字架上で息を引き取られた後、すぐに聖と俗を区分する「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と記しています。それは、十字架という現象による新しい世界の開始を象徴しています。死刑を執行したローマの百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言葉を発します。それが信仰告白か嘲弄かという言葉の真意はわかりませんが、物語の中で、イエス・キリストを神の子と明言した登場人物・人間は彼だけです。その意味では、彼の言葉は、新しい世界が始まった証に他なりません。十字架を神学の中心に据えているパウロは、「ローマの信徒への手紙」の一五章七節で「神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」と命じています。それは教会が新しい世界に生きる存在であることを示しています。
十字架以後も世界には様々な苦しみと悲しみが満ち溢れています。しかし、それはイエス・キリストが今も十字架上ですべての人を受け入れ続けていることを意味しています。だからこそ私たちにとってイエス・キリストの十字架の姿は、私たちの模範であり、変わらない希望として存在するのだと思います。
執事 バルナバ 菅原 裕治
(名古屋柳城短期大学教員・チャプレン)