『誰のために?』

去る7月13日未明から新潟県中越地方を記録的な集中豪雨が襲いました。その甚大な被害の中、私も支援活動に参加させていただきました。〝泥の竜巻に襲われた街″というのが市街を廻った私の印象でした。私は被害の深刻さに圧倒され、街の復興を遥か遠くに感じ、何らかの働きにより支援したいと考えていた私の力など何の助けにもなれないと思い、泥を掻き捨てるスコップを握る手に熱が入りませんでした。
しかし、そのような私の傍らには、ひたすら復旧作業を続けている幼稚園の先生方の姿がありました。先生方は自分たちも豪雨の被害に遭い、日々を何とか過ごしていくだけで精一杯であるはずなのに、何かに突き動かされるように復旧作業を続けていました。私は、その先生方の姿を見ながら、〝何が、ここまで先生たちを突き動かしているのだろうか?〟と考え、また、熱の入らない私自身と照らし合わせていました。

そして、先生方の復旧作業を見ているうちに、先生方を突き動かしているものを感じ取ることができるようになってきました。泥にまみれた遊具を一つ、一つ丁寧に洗っている先生方の姿、水没したピアノを何とか修繕しようとする先生方の姿の向こうに、その遊具で楽しそうに遊び、そのピアノが奏でる曲に声を合わせて元気に歌う園児の姿が見えたのです。先生方は、〝再び園児が楽しく遊び、安全に過ごすことができるように″〝すべては園児のために〟という使命と希望により突き動かされ、また支えられていたのです。

スコップを握り、泥を掻き捨てる私の手には、そのような 〝誰のために、何のために、何をしたいのか″という思いがなかったのです。そのことが私の心の中に無力感を生み、支えもなく、諦めの中でしか働けない自分を作り上げていたのです。

私は、先生方の姿に支えられ、自分が誰のために、何のために、何がしたいのかを求めながら復旧作業を始め直していきました。そして、園庭で楽しく遊び回る園児、嬉しそうにウサギに餌をあげる園児を思いながら、園庭の汚泥を掻き、ウサギ小屋の汚泥と糞を洗い流しました。すると、自然と作業の中に復興の希望を持てるようになっていたのです。私の働きが本当に少しでも園児の生活の中に生き、先生方を突き動かしている使命と希望の支えになれるかもしれない。その思いが私の働きの希望と支えとなり、私を突き動かしたのです。

そして、ある時、ふっと思ったのです、〝愛するとは、こういうことであるかもしれない〟と。まだ見ぬ園児の笑顔を思い、祈り、働くことができる。そして、そのために働く先生方を思い、自らを園児に捧げることを教えられる。今、私は、あの時、先生方に園児を愛するということを教わり、園児を少しでも愛することができたかもしれないと思っています。

私が三条を離れる時、ある一人の先生が〝たくさん、お手伝いしていただいて、ありがとうございました″という本当に素敵な言葉を私にくださいました。しかし、本当にお礼を言わなければならないのは私であると思いました。保育士を志す多くの学生が通う名古屋柳城短期大学の学生と関わりのある私は、学生たちがこのような、園児を愛することのできる先生になれるよう祈り続けていきたいと思います。
聖職候補生 ヨセフ 下原 太介
(名古屋聖マタイ教会勤務)