『教会の「祈り」』

2004年10月のメッセージ

4月から慣れない短大勤めをするようになり、今までとは違った生活の中で戸惑うことも多くなりました。その一つは、「祈る」ということについてです。これまでは、教会に定住していたこともあり、朝と夕の祈りの時間を曲がりなりにもとることができていたのですが、サラリーマン時代と変わらないような生活になって以来、その習慣を守ることがとたんに難しくなってしまいました。このことについては自分でも危機感を持っているのですが、同時に「祈る」ということの意味を改めて考える機会を与えられているような気もしています。
わたしが修士論文のテーマにしたのは「信徒が司式する主日の礼拝」でした。この中で、信徒の奉仕職の基礎は教会「外」での生活にあり、その生活と主日の礼拝とをつなげていくことが信徒の奉仕職にとって、そして教会にとって大切なことなのだと主張しました。わたし自身は、聖公会の聖職という立場で短大に勤めているわけですが、しかしそれでもなお、わたし自身が直面している祈りの課題とはこのことに尽きるのではないかとも思っているのです。

最近、柳城の学生たちが頻繁に隣のマタイ教会におじゃまするようになりました。マタイ教会は柳城のチャペルでもありますので、彼らが気楽に出入りしてくれていることをチャプレンとして喜んでいます。これは、同世代の下原先生目当てだったり、静かにお昼を食べる場所を求めてであったり、ピアノや劇の練習のためであったり…と、いろんな目的でやってきています。彼らがやってくるのは平日の、学校がある日が主ですので、その存在に気づいておられない方々も多くおられると思いますが、平日に学生たちが教会を訪れていることと、その同じ建物で教会の礼拝が捧げられていることとは決して別々の二つのことではなく、一つの出来事であることをわたしは確信しています。

まだ半年弱の教員生活ですが、その短い時間の中でもいろいろな形で学生の「祈り」に触れる機会がありました。ほとんどの場合、彼らはキリスト教的な言葉を使って「祈って」いるわけではありませんが、でも確かに「祈って」いるのです。紙面では抽象的にしか申し上げられませんが、そう言わざるを得ない状況の中で一生懸命生きようとしている、その彼らの傍らでわたしもまた、共に祈っていたのです。この彼らの「祈り」をどう受けとめていくことができるのか、日々問われ続ける中でわたしは毎日を送っています。そして同時に、これは教会全体の課題でもあって欲しいと思うのです。

神の光に照らされて生きるわたしたち一人一人の毎日は、そのままわたしたちの祈りであり、朝と夕の「時の祈り」は、その日々の時間に特別な意味を与えます。そして、教会にわたしたちが集まって祈ることは、この毎日の祈りを持ち寄ることだと思います。これらが一つになったとき、わたしたちは、そして教会はほんとうに祈っていると言えるのではないでしょうか。そしてその中で教会は、学生たち一人一人の心の叫びを受けとめていく場となることができるのだと思います。

執事 ダビデ 市原信太郎
(名古屋柳城短期大学チャプレン)