本の紹介「キリスト者として生きる」

中部教区の西原廉太主教が監訳をおこなった「キリスト者として生きる」がこの度教文館より出版されました。西原主教からの本の紹介と、「[月刊]キリスト教書評誌『本のひろば』」に掲載された東京教区笹森田鶴司祭の書評とあわせてご紹介いたします。

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西原主教からのコメント

ローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教の深い神学とスピリチュアリティが溢れる素晴らしい書です。黙想の手がかりとしても、お勧めいたします。

「人々が最も危険にさらされている場所、人々が最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところに、キリスト者の姿をきっと見いだせるのです」「もし洗礼を受けることがイエスのいるところに導かれることであれば、洗礼を受けた人は目的を見失った人々のその混沌と貧しさへと導かれます」

ローワン・ウィリアムズ<著>『キリスト者として生きる ―洗礼、聖書、聖餐、祈り― 』ネルソン橋本ジョシュア諒<訳>・西原廉太<監訳>(教文館、2021年)

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「イエスと共に歩み出す勇気をくれる一書」 <評者>笹森田鶴

わたしは霊的に飢え渇いていました。同様に身体的にも疲れ果てていました。そのことを周囲に気づかれないように振る舞うために、できるだけ沈み込まないで日々を送る努力を無意識にし続けていました。そのような時に本著に出会うことになり、わたしは自身の信仰の根本を問われ、チャレンジと同時に深い慰めを受けることになりました。むしろ、沈み込むことの意義とそのままでも立ち上がっていく力を与えられたのです。

本著は、前カンタベリー大主教(イングランド聖公会の最高責任者)ローワン・ウィリアムズ師の、カンタベリー大主教退任後に同大聖堂で行われた聖週の定例公開講座の講演に基づいています。タイトルにあるように「キリスト者として生きる」上で必要不可欠で根本的な4つの要素−洗礼、聖書、聖餐、祈り−について、読者がそれぞれ思い巡らすことに招いてくれる著作です。聖書と教父たちの言葉に基づいた幅広い見識と深い洞察力をもって、しかも読者が理解しやすい語りかけによって構成されています。すばらしい人生を送るための考察でも指南書でもなく、あくまでも混沌としたこの世界の中でキリスト者として生きることの意義といのちの本質について語ります。

たとえば洗礼の項目において、著者はイエスのいのちと死にあずかるということの具体的な生き様を提示します。洗礼によってキリスト者が真の人間への回復への道のりを歩むことができるために、イエスはわたしたち人間の混沌の世界−人びとが最も危険にさらされている場所、最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところ−に降りてこなければならなかったと言います。そしてそのような無防備なイエスに従うということは、キリスト者が自身の人生の混沌に気づき、同時に他者の壊れた人間性に巻き込まれ、「貧しく、汚染され、壊れた世界の中心に置かれている意味」を受け止めることだと繰り返します。そのような世界に身を置き、リスクを追う時、聖霊を受ける準備が整えられるというのです。

これらは、著者が前職に就いていた折の世界中の危機や困難の中に生きる人びととの出会いを通して確信をもって語られる言葉です。その意味でコロナ禍を経験する以前の講座であるにもかかわらず、現代の混沌の状況の中にあるキリスト者にとって根源的な問いかけや示唆を与えてくれます。

世界的な感染症のパンデミックによって全く違う日常の生活や信仰生活を余儀なくされているキリスト者にとって、今この世にキリスト者として生きる意味や自らの柱を再確認するための必読書です。個人でもグループでも読みすすめることを手助けする「振り返りやディスカッションのために」という問いも項目ごとに用意されており、さまざまな使用が可能になっています。

本著は信仰の旅をしている誰にとっても重要な霊的なダイレクションを指し示してくれます。おそらくわたしはこれから何度もこの本を読み返し、それまでの道筋を振り返りながら初心に戻らされる信仰の旅を過ごすことでしょう。

(ささもり・たづ=日本聖公会東京教区司祭)

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