大切なあなたの思い通りに~主の御心のままに~

 昨年4月に立教学院へ出向し、私自身、また家族、特に今年11歳になり多感な時期を迎えている息子の生活は一変しました。必死に新しい環境に適応しようとする息子の姿に、親として心を締め付けられる思いもありましたが、時を経て、次第に友達もでき、懸命に学校と塾での学びに取り組む息子に、親として胸を撫で下ろすことも増えつつあります。
 しかし、塾での年末年始冬期講習の年末期、息子は4日間のうち3日間を持病の片頭痛を発症させてしまい、半日あまりで早退するということが続きました。息子にとって塾は相当の精神的負担であることは否めなく、4日目は欠席することとしました。そして、同時に年始期の講習も全てキャンセルすることにしました。
 この一年間で、これまで息子自身の中にあった様々なもの、時間の流れそのもの、そして、全てが激変したことにより、大きな精神的負担を息子が抱え込んでいることに親である私は、心のどこかで気づいていました。気づいていたのです…。
 しかし、親として、息子の将来を考え、「今は、これはしておかなければならないこと。今は、それを乗り越えなければならない時」と自分自身にも、息子にも言い聞かせて過ごしてきました。全ては息子のために…と。
 全ては息子のために…。果たして、本当にそうだったのでしょうか?塾の冬期講習をリタイアした息子の体調を心配しつつも、私はある種の苛立ちを心の片隅で感じていました。息子の塾での学びが遅れることに、講習費用が無駄になってしまったことに、息子の学習意欲に疑問を抱いてしまっている自分自身に。
 この自分の中に生じた苛立ちと向き合ううちに、私は自分でも気づけていなかった自分自身の本心に気がつきました。私の本心とは、実は「全ては息子のために」ではなく、「息子の全てを自分自身の思い通りにしたい」だけだったのです。そして、「子どもは、親の思い通りになる」と勘違いしていたのです。だから、私は自分の思い通りに、塾での学びを全うできない息子に、そして、その事実に言い知れぬ苛立ちを感じていたのです。
 「子どもは親の思い通りになる」この勘違いは大切な子どもの真の姿を見えなくさせ、時に、子どもの未来に親自身が立ちはだかってしまうという悲劇を招きます。
 主イエスは12歳になった年の過越祭の神殿詣での際、母マリアと養父ヨセフと3日間もはぐれてしまいます。必死の思いで、愛する我が子を見つけた母は、息子に向かって、こう言います。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんも私も心配して捜していたのです」(ルカ2:48)と。
 この言葉は当然、我が子イエスに対する母の深い愛に基づく言葉ではありますが、やはり、親の視点でしか語られておらず、その真意は「子どもは親に心配をかけてはいけない」というものであり、親の言うことを聞いて、素直に付いてこなかった我が子イエスへの両親の苛立ちを強く表現しています。
 この二人にとって、この時、イエスは徹底して〝我が子〟であり、決して〝主〟ではなかったのです。「子どもは親の思い通りになる」という勘違いと、自分自身の思い通りにならない我が子への苛立ちが、大切な〝我が子〟の真の姿は〝主〟であるという真理を見失わせてしまったのです。
 私たちは、自分自身の子どもに留まらず、家族や近しい誰かを思い通りにできる、思い通りにしよう、思い通りにしてもいいと勘違いし、その存在を所有してしまった瞬間、その大切な存在の本質を見失い、その存在そのものを失ってしまうのではないでしょうか。
 大切なのは、「自分自身の思い通りに」ではなく、「大切なあなたの思い通りに」(主の御心のままに)なのです。

司祭 ヨハネ 下原太介
(立教学院出向)