ギリシャ語とわたし

 ルカによる福音書第16章第1節以下には、「不正な管理人」のたとえという見出しがついています。すると、なにか管理人が不正を働いたと思うかもしれませんが、管理人が不正をしたのでないとも読めます。「不正の管理人」というのは、「不正なものについての管理人」と訳すことができるからです。すなわち、管理人が不正ではなくて、お金持ちの富が不正にまみれているという可能性です。それが前提であると、不正は金持ちの富にあり、この管理人はそれを正そうとしたという読み方になります。この金持ちは、自分の財産を管理人(=家令)に預けて管理させていました。今も資金運用会社とか管財人とか言われる人がいますが、主イエスの時代にも珍しくなかったと言われます。そして、お金持ちの富が不正にまみれているとすると、この管理人はドラマ『半沢直樹』の主人公のような、たとえ小さい事と思われるかもしれないけれども、不正なものがあればそれを拒否するという態度が見えてきます。『半沢直樹』でいえば部下である銀行員が上司の悪い誘いを断りますけれども、私も、組織の中で働いているとやはり長い物にまかれたくなってきますので、なかなかできないのですが、これが正義、神様の御心であれば、それを貫いていくという生き方は魅力があるとおもいますし、自分もそのような行動がとれればと思っていて、この福音書には励まされます。では、どうして「不正の管理人」というのは「不正なものについての管理人」と訳すことができるのでしょうか。ギリシャ語の文法では、属格名詞には、主格的属格と目的格的属格の二つに解釈の余地があり、主格的属格説に立てば「不正な管理人」(管理人が不正である)ということになりますが、目的格的属格説に立てば「不正な」は主体ではなく対象となるので「不正なものについての管理人」となるのです。だから、「不正なものについての管理人」もギリシャ語文法上は正しい読み方の一つなのです。
 聖公会神学院に入学し、一番楽しかったのは、挽地茂男先生のギリシャ語の授業でした。メイチェンのギリシャ語の文法書をとても分かりやすく解説していただいた後、挽地先生から、新約聖書のギリシャ語の勉強ノートを見せていただきました。それ以来、約25年間、毎週の主日の福音書の箇所を日本語ではなくギリシャ語で読みながら、挽地先生の新約聖書のギリシャ語の勉強ノートにしたがってノートを作って、ギリシャ語に親しんできました。挽地先生からは、日本語の翻訳は数ある翻訳可能な翻訳のうちの一例にすぎず、翻訳の可能性は無数にあること、だから、その代名詞は何を指すのか、その単語の本来の意味はなにか、文法的にも別の可能性があるので、それをしっかりと検討することなどを教えていただきました。このような視点で読みますと、翻訳というのは、ラテン語の翻訳も含めて、翻訳者の意図が明確に示されていると思います。福音書を書いた約2000年前の福音記者は、どのような意図をもって聖書を書いたのか、そのようなことに思いを馳せながら、ギリシャ語を読み、説教や宣教に生かしていくことができればと思います。

司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新潟聖パウロ教会 牧師)