この3月で、6年間勤務した立教池袋中学校・高等学校でのチャプレンの任期を終え、4月からは東京教区に出向して主教座聖堂で働くことになりました。中部教区の皆様にしてみれば、「なんでそうなるの?」と驚かれたことと思いますが、正式決定までは詳細をお伝えできず心苦しいものがありました。ようやくすべての手続きを経て、「管区事務所だより」にも掲載されましたので、皆様にご説明できる段階になりました。
6月の日本聖公会総会にて、祈祷書改正が決議されましたが、この決議の中で、作業のために専従担当者1名を置くことが認められました。そして、総会後の常議員会の承認などを経て、小生がこの任に当たることが正式に決定しました。学校勤務を外れる関係上、異動は4月にせざるを得ず、総会のタイミングとリンクしませんでしたので、ミステリアスな人事になってしまった次第です。
「礼拝を通して人を励ます」ということは、聖職を志願した大きな動機の一つでもありましたので、このような形で用いていただけることには感謝と共に、大きな畏れを抱いています。いろいろな条件を考えると、小生がこの任に適任とも思えませんし、学識も経験も不足しています。しかし、これを自分の「召命」として引き受けていく時、そこには「向き・不向き」を超えた「ふさわしさ」が与えられるというのが、聖職志願以来のわたしの確信です。
聖職按手の際、司式者である主教は推薦者にこう問います。「今あなたが推薦する人は司祭(執事)にふさわしい人ですか。」これに推薦者が「司祭(執事)の務めにふさわしい人であると思います」と答え、会衆の同意と支持によって按手式は行われます。聖職の務めは、教会がその人に「ふさわしさ」を認めることに基づいており、とても「ふさわしい」とは言えない自分を神が「ふさわしい」ものとして用いてくださることへの無条件の信頼によるのです。
「召命」とは聖職を志すことだけを指すのではなく、すべてのキリスト者に共通の招きであると思います。自分が置かれた場所で、一人ひとりがそれぞれの形で神さまからの招きに応え、神さまが求めておられることを祈りの中で探し求めながら、一所懸命に自分の務めを果たしていくこと。その中で、神が自分をその務めに「ふさわしい」ものとしてくださることを信じること。これがわたしたちの信仰ではないでしょうか。
祈祷書の改正という大きな仕事はまだ始まったばかりで、今後どう進んでいくのかさっぱり見当もつかないのが現状です。映画「十戒」で、イスラエルの民の前に立ったモーセが「何と言う多さだ、多すぎる!」と呆然とするシーンがありますが、本当にそんな心境です。他の管区での祈祷書改正がどのようにしてなされたかを見聞きするにつけ、日本聖公会がさまざまな貧しさを抱えていることも実感せざるを得ません。しかし、その中でなされる働きを神が「ふさわしい」ものとしてくださり、わたしたちに「ふさわしい」祈祷書が与えられることを信じます。ぜひ、この働きに関心を持ち、祈りをもってお支えくださるよう、お願いしたいと思います。
司祭 ダビデ 市原信太郎
(東京教区主教座聖堂付)