朝、目が覚めると「あれっ、雪が積もっているかな?」と布団の中でも気が付くことがある。暗くても何となく明るい気がするし、静かすぎるときは、だいたい雪が積もっているのである。子どもの時は、雪が降るのをとても楽しみにしていた。何して遊ぼうか、授業も急遽変更してグランドで雪遊びをした記憶も楽しい思い出として残っている。しかし、大人になると事情が少々異なってくる。通勤の電車は大丈夫だろうか、雪掻きはどうだろうかなど、心配の方が先立つ感がある。実際、5、6年前に軽井沢に観測史上を更新する積雪量の雪が降ったことがある。一夜にして外の風景が、綺麗というよりも、どうしようという思いの方が勝るような景色となっていた。現に、道路は峠越えの出来ないトラックが連なり、家から出られなくなった方もおられた。自宅の周りでは、雪が小康状態になったのを見計らって、誰彼となく除雪車を通すために雪掻きが始まり、作業は長い時間かけて行われた。その掻いた雪を積み上げた所では、子どもたちが遊び始めていた。段ボールを見つけてそり遊び、穴を掘ってかまくら作りと、手や顔を真っ赤にしながら遊んでいた。
子どもたちの遊ぶ姿を微笑ましく見ながらの作業も終わろうとしていた時、ふと服に着いた雪に目が留まった。普段なら、なに気にすることもなく雪を払ってしまうのだが、雪に目が留まった。雪の結晶をはっきりと見ることが出来たのである。生まれて初めての経験だった。その雪の結晶を見て、大学生の頃に読んだ、物理学者である中谷宇吉郎の雪に関する随筆を思い出した。寒い中、顕微鏡で覗いた雪の結晶が幾種類も描かれ、そして、「雪は天からの手紙である」という文章である。天からの手紙は神さまからいただいた手紙ではないかとも思う。優しい文章のときもあれば、厳しい文章のときもある。厳しいと思うのは受け手側の勝手な思いもあるのかもしれない。地位や立場など、色々なしがらみで厳しいと思うこともあるだろう。いずれにしても、神さまは私たちに手紙を投げかけて下さっている。そして、手紙を出し続けても下さっている。その手紙を私たちは受け入れているだろうか。都合の良い手紙だけ目を通していないだろうか。自分自身も省みなくてはいけない。
ひとつひとつの天からの手紙は小さくても、ひと晩で世の中を真っ白に覆いつくすことが出来る。私たちひとりひとりの働きも小さいかもしれないが、働き続けることが大切ではないだろうか。神さまからの言葉を聖書に押し込めたままにすることなく、日常の生活に顕せる働きをしたいものである。
神さまからの手紙によって、この世界が光で覆われる日が来ることを祈りたい。また、光で覆われるように、その働きを教会とともに歩んでいきたい。雪は春とともに消えてしまう。神さまの言葉を消すことなく、大切に持ち続けたい。
司祭 フランシス 江夏一彰
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)