きっと実はむすびますよ

 「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカによる福音書第13章8~9節)

 因果応報の考え方は、今の日本でもそうですけれども、当時のユダヤ教においてもよく親しまれていた考え方です。これに対して、イエス様は決して因果応報ではないと、実のならないいちじくの木のたとえをされたと思います。ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、3年の間、その実がなりはしないかと期待してこの木のところに通い詰めます。ところがついにこのいちじくの木は実をつけませんでした。怒ったこの主人は、このぶどう園を管理していた園丁に向かって言います、「こんな実を結ばないいちじくの木を植えたままにしておくのは土地の無駄だ。さっさと切り倒してしまえ」と。けれどもその時、このぶどう園の管理をゆだねられている園丁は、このいちじくの木をかばうようにして言うのです。実りを生まない私たちいちじくの木、しかしその私たちをかばい、「もう1年待ってください」とおっしゃってくださいます。
 どうでしょうか。わたしは、本当に、イエスのたとえ話は、いつも優しくて、愛の香りを漂わせる、本当に素晴らしい話であるなと思います。このいちじくの木、園丁によって命を救われたわけです。もう切り倒されてもしょうがない、どう考えても救いようがないというような木を、この園丁は命乞いをして守って、ちゃんと周りを掘って肥やしをやろうとします。1本たりとも切らせまいとする園丁の熱い思いがあふれています。もし、
それでもダメならと、この園丁は一応言いますけれども、ダメなはずがないのです。この園丁はイエスでしょうから、イエスがちゃんとしてくださるのだから、ダメになるはずがないのです。翌年、必ずや、たわわにいちじくが実って、あぁ、切らないで良かった、ということになるのでしょう。このように、因果応報の考え方に基づく 〈実を結ばない木は切り倒してしまえ〉という思いの先に、キリスト教の 〈もう、どうがんばっても実なんか結べませんと思っていたのに、神さまがちゃんと世話をして実を結ばせてくれる〉 という喜びの世界が待っているということに信頼してほしいのです。ここが、キリスト教の一番素敵なところです。そしてイエスを知るわたしたちは因果応報の考え方にとどまっていてはいけないということも示しています。自分ではもうダメだと思い、周りも切り倒せと言っていても、それでもなお、園丁が現れて、「いいや、あと1年待ってくれ。私が穴を掘って、ちゃんと肥やしをやるから。そうすれば必ず素晴らしい実を結ぶから」と言ってくださるし、成果をちゃんと出してくださるということです。こういう例えに励まされて、私たちは、どうにも実を結びそうにない自分に絶望することなく、必ず来る実りの日を待ち続けたいと思います。


司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(名古屋聖マルコ教会牧師)