「アっ~、今日も抜かれてしまったァ!!」
職場へは最寄りの駅から歩いて行くことが多いのだが、必ずと言って良いほど、途中で追い抜かれてしまう相手がいる。その相手とは、中学生の女の子である。体は小柄で、手足も細く、一生懸命にその手を振りながら、自分よりも大きなカバンを背負って走り去って行くのである。走らなくては間に合わないのかなぁ、と、お節介なことを思うのだが、その光景が微笑ましくもあるのである。
ある朝のこと、その女の子が歩いていた。と、思ったら走り出し、また、歩いていたのだ。何となく、その走り方も歩き方もぎこちなく、いっぽうの肩も下がっているのに気が付いた。よくよく見ると、膝の辺りに繃帯が巻かれていた。おそらく、何処かで転んだかして怪我をしたのだろうが、その理由を知る由もない。そういえば、この女の子の顔を見たことはなく、辛く悲しくなっていないかと慮ってもしまうのだが、推察でしかない。
こう思うと、自分は沢山の人のうしろ姿を見て歩んできた、また、歩んでいることをあらためて感じた。そのうしろ姿は、若い時には沢山の先輩方である。しかし、そのうしろ姿は小さく、遥か彼方に見えるか見えないかであり、
早くそのうしろ姿が大きくならないかと、願ったものである。勿論、願ってばかりでは大きくはならず、大きくならないかと途切れ途切れに走ったりもした。しかし、そのうしろ姿に追いつくどころか、ちっとも大きくならないのである。また、小さくても見えれば良い方で、どうしても、うしろ姿が見えない方もおられる。
うしろ姿を見て歩いてきたとばかり思っていたが、年を経るとともに見られる側になってもいる。「江夏先生のいる教会へ行ってみたい」と声を掛けられることがある。その相手は、信徒ではない方が多く、また、実際に足を運んで下さる方もおられる。もし、自分のうしろ姿を通して教会への思いがつながるのであれば、身の引き締まる思いである。何故なら、自分が見えないうしろ姿の方が、自分のすぐ横を一緒に歩いて下さっているからである。その方が前を歩いているのではなく、その方が歩んだ道を自分が歩くとき、すぐ横で支えて下さっているからこそ、その方のうしろ姿が見えないことに気付いたのはいつのことだっただろうか。
年を経ると、歩みが遅くなる。必然的に、その横を若い人たちが、スゥっと追い抜いていく。そして、自分は再びうしろ姿を見ながら歩くことになる。この時に見るうしろ姿は、自分は支える側になってもいる。うしろ姿には、顔以上の表情が見える気がする。顔で笑って、背中で泣いている若い人たちを見てきた。顔だけではなく、うしろ姿にも笑顔でいられる世の中になって欲しいと祈り、また、働いていきたいと思う。
小さな女の子は、今日も一生懸命に前を向いて、腕を振りながら走っている。大きなカバンを背負いながら。この頃は、頼もしくさえもある。その小さなうしろ姿の力強さに、自分もしっかりと前を向いて、時には振り返りながら、歩んで行きたい。
(軽井沢ショー記念礼拝堂勤務)