『8月に思うこと』

8月は、長崎、広島への原爆の投下、そして57回目の終戦記念日を迎え、平和への決意を新たにする月でもあります。
しかし、その決意に逆行する政治状況、あるいは日本国憲法の平和主義に挑戦する復古主義的軍事大国意識が見え隠れしています。そのことは、戦争への厳しい批判を曖昧にした戦争責任意識、独善と甘えの構造と無関係ではないと思う。
敗戦後57年間、四方を海に囲まれ、外敵の侵入機会の比較的少ない島国であるため、平和に経済的繁栄を謳歌する一方、憲法が国民に保障する財産権、平和的生存権などの基本的人権、地方自治が脅かされている沖縄の現実を直視しなければならないと思う。巨大な米軍基地からの出撃により、自らの意に反して他国民を死傷せしめる加害者となっている現状。あるいは、広大な基地と水域、空域が、米軍の管轄下におかれている結果、沖縄の自立的発展に必要な産業の育成を困難にし、県民一人当たりの所得は全国平均の約74%、東京都民の半分以下で全国最下位、さらに失業率は全国平均の2倍である。
日本国憲法の平和主義に関し、1948年2月7日、文部省発行の中学1年生向けの「あたらしい憲法のはなし」、特に「戦争の放棄」の項では、「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのいっさいのものはもたない」ことを意味するとし、さらに以下のように明言しています。「しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行なったのです。世の中に正しいことぐらい強いものはありません」と書かれています。
憲法の平和主義、とりわけ第九条の条章が、日米安保条約と自衛隊が40年以上に及ぶ「既成事実」としてもはや動かし難い重い存在となったかに見える今日、これにどう対処すべきかば、我々にとってきわめて重要な問題である。それは単純な「否」、という対応だけでは、余りに抽象的・非現実的・非生産的だからである。とすれば、憲法の平和主義の原点に立ち返って、これを積極的、創造的に再構築する方途を検討すべきであると思う。
「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」(イザ2・4、ミカ4・3) この言葉は、日本国憲法第九条、及び平和主義の思想と同じである。巨大な国家に挟まれたパレスチナで、イザヤとミカが語った深化するに足る価値を内在した高い理念である。我々は、預言者が神の啓示を受けて語ったこの理想が、この地上に実現するために祈り、労する「平和を実現する人々」(マタ5・9)となるようにと召されているのである。
「剣をさやに納めなさい。剣をとる者は皆、剣で滅びる」(マタ26・52) と主イエスは弟子達を諭して、自ら十字架の死の道を選ばれました。我々は、主イエスの自己犠牲と献身の御足をたどることによって平和を実現する道が開かれるのではないだろうか。

司祭 テモテ 島田公博
(飯山復活教会勤務)