唐突な質問かと思いますが、人生をもし、できることなら時間を遡って修正したい、訂正したいと思うことが皆さんはありませんでしたか?
以前の若かった時にはやり直したいと思っていたことであっても、もう歳を重ねた今日に至っては、消し去りたいと思っていたことがあったからこそ、今の自分があるのではないか形成されてきたのではないか、その消し去りたい修正したいと思っているものがむしろ自分には必要なことであったように思えてきたりもします。
今、自分が受容できないと思うことがたとえあったとしても、そこには大袈裟に言うと、真理となるもの、玉となるものがあるのかも知れないのです。この如何ともし難い「現実」を前にしても、いずれ振り返ってみれば、違った意味となり恵みとなることを信じて歩む、それが希望を持って歩むことなのではないかと思います。そしてそれは、やがて今までとは違った希望がこの先に待っていることを信じて生きる生き方、家造りらが捨てた石が隅の親石とされた世界での歩み、なのではないでしょうか。
あるひとつの詩を紹介させて頂きたいと思います。毎年迎えるこの季節ではありますが、ひとつでも気付きが与えられ、天使と共に賛美の歌を奏でるようなアドヴェントを過ごしたいものですね。
「答えられた祈り」
私は神に 強さを求めた
何事かを成し遂げるために
すると私は弱くされた
従うことを謙虚に学ぶようにと
私は神に 健康を求めた
もっと偉大な仕事をするために
すると私には病が与えられた
恵み深い仕事をするようにと
私は神に 富を求めた
幸福になるために
すると私は貧しくされた
智恵ある者となるようにと
私は神に 力を求めた
人々の称賛を得ようと
すると私には弱さが与えられた
自分には神が必要であることを自覚するために
私は神に あらゆるものを求めた
人生を楽しむために
すると私にはいのちが与えられた
あらゆるものを楽しむようにと
求めたものは何一つ手に入らなかったが
望んでいたものは すべて与えられた
的外れの私の祈りにもかかわらず
神はことばにならない私のほんとうの願いを聴いてくださった
私はだれよりも豊かに祝福を受けている
(南北戦争時代の一兵士による)
司祭 エリエゼル 中尾志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)