『聖職試験を受けて』

ようやく司祭試験が終わり、ホッとしています。結果はともあれ、受験生として過ごしたこの3ヶ月は、いつも頭の上に重荷がのしかかっているようで、あまり気分のいいものではありませんでした。胃は痛くなりませんでしたが、ただでさえ少ない髪の毛がさらに減ったような気がします。大勢の方から温かい励ましや、時に厳しい叱咤のお言葉をいただき、うれしいやら情けないやら。「聖職」 への道の険しさに、今さらながらたじろいでいます。
神学校へ行っている時に、試験問題で、「これこれについて、高卒程度の人に理解できるように述べなさい」 というのがあって、高卒の私がその答えを書いたのですが、ちょっと複雑な気持ちでした。今回の試験で、とてもむずかしいと私には思われる問題に遭遇し、ほとんどあてずっぽうの答えを書いたのですが、そんな自分がとてもいやになりました。やっぱりおれは高卒だし、52歳の今までいい加減に生きてきたツケがまわってきたのかな、と悲しくなりました。
今、聖公会の 「司祭」 になるためには、何が求められているのかと、ぼんやりと考えていました。物事、とくに神学的なことを論理的に考え、きちんと表現することが出来る能力、いちいち参考書を見なくても、聖書のこと、教会の歴史、教会の教え、その他の知識が記憶されていて、即座に正確に説明できること。いわゆる 「知的エリート」 として、信徒を指導できる能力を備えている、というようなことなのでしょうか。
聖職志願しようと決めた時、私のそれまでの思いの中から、自分は高校しか出ていないという劣等感が、払拭されたはずだったのですが、まだ残っているようです。「甘えるな」 という声が聞こえてきそうです。学歴のせいにするな。自分に能力がないなどと裁くな。努力が足りないだけなのだ、という声が。
努力といえば、神学校に入学して、私が最初にぶつかった壁は、上昇志向でした。努力せよ。頑張って、いい成績を取れ。立派な牧師になるのだ、と自分をむち打ちました。長続きしませんでした。疲れてしまいました。手に負えない課題もありました。そうした中で、上昇志向を捨てなければならないことに気付かされました。あたかも自分の力でこれまで人生の道を切り開いてきた、のぼってきたという思い、考えは大きな間違いでした。よくよく自分を眺めてみれば、体も健康も、そして命もすべて神から与えられたものであり、与えられたことに感謝こそすれ、それを誇ったり、逆に劣等感を持ったりするのは筋違いだなと思いました。ありのままの自分を受け入れ、そこから出発する必要があると感じました。
イエスが最も弱くされたお姿で、救いのみわざを成就されたことの意味に気付かされました。この愛の内に赦されて、今ここに立たされている。ひとを愛することのできない私が、愛され、生かされている。
変な劣等感で自分自身を粗末にすることは、創り主である神さまに対して失礼です。赦され生かされている私が、自分を大切にして、ひとと助け合って生きていく。そのためにはどうしたらいいのか、自分に与えられている賜物をどう発揮していったらいいのか、この文脈に努力という言葉が出てきます。賜物を生かし切る努力をする、もちろん神さまの助けによって……

執事 イサク 伊藤 幸雄
(岐阜聖パウロ教会牧師補)