今年に入って、私は最初の祈り(観想祈祷)として「私自身の存在」について神様に尋ねました。
「主よ、私の名前は何でしょうか」と。
「内容(心)が分からない者」という答えが聞こえてきました。
私はまた聴きました。
「主よ、こんなに単純な私がなぜ分からないのでしょうか」
主は答えてくださいました。
「しかし、希望を持っている者、期待される者。私はお前と共にこの新年を開こう」
再び聴きました。
「新年を開くとは何でしょうか」
主の答えは「呼吸、生きること」でした。
その答えを聞いて、私はすぐにこういう内容で新年の最初の祈りを捧げました。
「新年を開く方は主ですけれども、私をあなたの御働きに参加させてください。そして私の新年に主が参加して頂き私の人生を開いてください」
意図的に何かを考えた祈りではなく瞬間的に出てきたことだったので、本当に不思議に思いました。
ところが一つ、「あなたは内容が分からない者」という言葉で気持ちがすっきりしなくて、今自分は主にさえも何か隠そうとしているのかなという思いで悲しくなりました。そんな気持ちのまま翌日を迎えました。ヨセフとマリアが赤ん坊のイエス様を連れてナザレのほうに逃げたという聖書の部分を読みました。ナザレという単語にふれたとき、ほんの1秒にもならない短い時間に、この「ナザレ」は「内容が分からない者」と同じことを示しているということに気づかされました。メシアとはふさわしくなさそうな田舎のナザレ、しかし赤ん坊のイエス様がそこに行かれたことによって希望があり期待される所となった、そこが私自身の心であるということを知らせてくださったわけであります。
その後、もう既に1ヶ月半が経ちました。その間、私の祈りは次のように進んできました。創世記25章19~34節とマルコによる福音書9章30~41節を読んで黙想していた時、感じたことがあります。創世記に、リベカがお腹の双子が喧嘩していたため神様の御声を聴こうとして(祈るため)出かけたと記されています。とにかく、リベカの二人の息子たちは仲が良くなくて、兄は弟に騙されてパンとレンズ豆の煮物で長子の権利を譲ってしまう過ちを起こしました。軽々しく扱った長子の権利とはいったい何を意味しているのか気になりましたが、そのまま継続してマルコによる福音書を読みました。
弟子たちはイエス様の話に対して議論をしましたが、怖くてイエス様に聴こうとしませんでした。イエス様は一人の子どもを彼らの真ん中に立たせてこうおっしゃいました。
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(マコ9・37)
私は、長子の権利ということは、とても小さな者を受け入れることと関係があるということに気づきました。
一緒に祈る仲間の人からこういう話を聞きました。「マルコによる福音書に、イエスの弟子でもないのにイエスの御名で奇跡を行う人たちについての話が出ていますが、考えてみれば彼らは力を持って働いたことで弟子たちは逆に弱い者だったという感じを受けます」と。
その時、主は私にこうおっしゃいました。
「弱さをあなたの真ん中に置きなさい、弱いことを嬉しく思いなさい。私が助ける」と。
司祭 イグナシオ 丁 胤植
(長野聖救主教会牧師)