「日本聖公会〈宣教・牧会の十年〉提言」のはじめに、「聖公会信徒の減少、財政の逼迫などの現状」が語られています。この現況を変えていくということが私たちの急務です。提言では、東日本大震災の悲劇を踏まえて、絶望の内にある人びとのかすかな声に耳を傾け、声を出せない人びとの「声」となっていくことが、私たちの使命として示されました。12月に入り、教会暦もA年となり今年はマタイ福音書を読んでいきます。
カルカッタの修道院で女子教育に打ち込み、校長まで務めていたマザー・テレサ(写真)が、神のみ告げによって貧者のために働くことを決意したのは1946年9月10日のことでした。ダージリンに向かう列車の中で、彼女は神の言葉を聞いたのだと言います。列車に乗り込もうとした彼女は、駅の雑踏の中で息絶えようとしているひとりの貧しい男の姿を見つけます。思わず彼に歩み寄った彼女は、彼が「わたしは渇く」とつぶやくのを聞き、衝撃を受けます。なぜなら、この言葉が、十字架のイエスが死の前に発した言葉だったからです(ヨハネ19・28)。彼女は目の前で誰からも見捨てられて死んでいく貧しい男の中に、十字架で死んだイエスの姿を垣間見ます。後にバチカンから調査のため訪れた神父に、テレサはマタイ福音書にあるイエスの台詞を引用します。『わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(マタイ25・40)です。
じつにわかりやすいです。しかしそれがわかったからといって、誰でも悲劇のうちにある人々と関わりを持つわけではありません。その後、テレサは、スラム街に飛び込み、そこで生活しながら活動を始め、1950年には「神の愛の宣教者会」をカルカッタに設立、以来、死を待つ人の家やハンセン病患者の家、孤児院などの施設を開設し、多くの人びとを救いました。カルカッタでなくとも、東北でなくとも、中部教区の各地域にあって、声を出せない人びとの「声」となるような働きがあると思います。そのような働きを、誠実に貫くことをとおして教会が信頼を得ることが、「聖公会信徒の減少などの現状」を切り開く重要な手段であると考えます。
私たちクリスチャンは信頼に値する存在になっているでしょうか?新生病院での病室訪問の際にクリスチャンであると私が言うと「間に合っています」と言われることがあります。間違いなくクリスチャンは詐欺師のような不信感を持たれています。クリスチャンであることの大切さを伝えなければ、クリスチャンになりたいと思う人は出てきません。単に仲間内が集まって日曜日に礼拝することだけではだめです。韓国で約3割がクリスチャンであるのは、韓国の民主化運動の際に「民衆」とともに教会が時の権力者と闘った同志であるという信頼感があるからだとも聞いています。声を出せない人びとの「声」となるような働きのうちに、地域の教会が協力して「人」と「お金」をもちいて信頼を得ていくことは、将来教会を再生させる礎となると思います。教会が協力してその地域で必要な宣教課題に取り組んでいきたいと思います。
司祭 ヨセフ 石田雅嗣
(新生礼拝堂牧師)