主イエス様のご復活を心からお祝い申し上げます。
「弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」
ヨハネによる福音書21章の冒頭にある物語中の一節である。
ヨハネ福音書は20章できれいに終了している。「本書の目的」をもってきちんと閉じられている。その後何らかの理由で編集者により21章が付け加えられたのである。わたしはこの21章が好きである。お好きな方も多いと思う。21章の中の1節-14節も好きである(目を通していただきたい)。この物語に流れる雰囲気がとてもいい。20章までにペトロにイエスが現れたと言う物語が無いので21章が付加されたのかどうかわからないが、21章全体がシモン・ペトロに関する物語となっている。
まだ復活に出会っていないペトロを初めとする数名の弟子たちが十字架の大騒乱のあとふるさとに戻り、少々疲労気味の中で、慣れた「漁」に夜行くのも自然である。「何もとれなかった」(3節)と記されている。4節の夜明けも象徴的だ。その時刻にイエスは岸に立っておられ、静かに彼らの言動を見ておられたとある。イエスの言葉に従って綱を打つと、引き上げることが出来ないほどの大漁という仰天すべき出来事が起こる―ルカ福音書5章1節以下に関係があるか? イエスの愛しておられた弟子が、主であることを告げると、裸同然だったペトロが上着をまとって湖に飛び込んだという描写、彼の人物、性急で、ユーモラスな性格を見、わたしたちは思わず微笑む。
わたしはこの物語の弟子たち全体の言動の静けさと、心の中のしみじみとしたはちきれるほどの喜びを感じ、描写のうまさに感心する。黙っていても成り立っているイエスと弟子たちとの以前からの関係、しかもあの十字架事件による狼狽と何と復活されたイエス。そこにはイエスに「あなたはどなたですか」と問う必要もなく、弟子たちに「十字架の時は大変だったね」と裏切りを口にする必要もない両者。すべてイエスに見通されており、しかもイエスの赦しが感じられ、責められることもない。焼いた魚を真中に、イエスと気恥ずかしい弟子たち。謝ることも無く以前の関係と同様の関係に甘えられるうれしい気持ち。
暖かい目で見通されている弟子たち。これはイエスとわたしたちの今の状況であろう。わたしたちは分かられている。知られている。個人的に、また社会の中で、世界の中で、わたしたちはみ心にかなう生き方をしようとしながら、主イエスをしばしば裏切ってしまう。40日間の大斎節をともに歩みながら、そのことを切実に感じてきた。しかし大斎節は復活日で終わりとなる。いかなる、み心にかなわない状況にあろうとも、イエスは変わることなく、咎めることなく、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(12節)と手を広げて招いてくださる。わたしたちは分かられている。うれしいことである。
聖餐式は復活のイエスが弟子たちとなさった食事の記念でもある。心から復活日の聖餐式をささげよう。
主教 フランシス 森 紀旦