『御降誕の出来事』

御降誕の出来事を通し、神様のお働きが、人間の思いと想像を超えた所に及んでいるということを思わざるを得ません。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(マタ・2・1~2)
エルサレムから数十キロ離れた寒村での救い主誕生の知らせは、ダビデによって約束され、ソロモンによって建てられた神殿のある宗教的、政治的中心地であったエルサレムに最初に告げ知らされるべきでありました。しかし、エルサレムの人々には告げ知らされず、遠く離れた東方の地にいた学者達が、その誕生の知らせの星を見ました。ところで聖書では「東」は良い意味が与えられていません。例えば、アダムとエバそして、カインは、エデンの東に追放されました。「東」は、人生に躓き、神様から追いやられた寂しく暗い所でした。しかし、きらびやかな社会の中心である宮殿、神殿ではなく、社会の周辺、異邦の地である「東」でこの星を見たということの中に、御降誕の深い意味があると思います。
次いで、その誕生を知らせる星は、ヘロデの世に輝いていたと記されています。イエス様がお生まれになったのは、ヘロデ王の時代であり、当時、ユダヤはローマの属国であり、人々は、圧制に苦しみ、暗黒の時代でした。その時、この星は、博士達をエルサレムに導き、ヘロデの宮殿を通り過ぎ、小さな幼子の家に導きました。ここに、御降誕の星のもう一つの大切な意味があると思います。
真の権威は、強力な軍隊や兵器によって示されるのではなく、幼子によって、生まれたばかりの命そのもの、何も持たない幼子こそが、真の権威であることを星は告げていると思います。この世の頼みとする物を身につけることによって人生の意味、確かさを得ようとするのではなく、何も持たないで、命として、神様によって造られ、神様の前に生きること、そのことの意味を星は告げていると思います。
そして、その星を、ユダヤ人からは差別され、人間扱いされなかった異邦人である博士達が発見し、彼らはその星を見て出発しました。星を眺めていただけでは救いは確かなものとなりません。彼らは、星の招きに答えてその道程の幾多の困難に遭遇しながらも、主イエス様に巡り会いました。闘い、生き抜き、主イエス様の御旨であると信じて従う時、そこに真の救いがありました。
2006年のクリスマス、私たち自身の人生の身近な所で、さまざまな問題に直面しています。しかし、もう一度イエス様によって与えられた命そのものとして生きることを、主イエス様の御降誕とともに決意しようではありませんか。

司祭 テモテ 島田 公博
(飯山復活教会勤務)