始めてでした、こんなこと。時々声がガラガラ声になることはありましたが、経験したことなんかありませんでした。
降臨節前主日を明日にした土曜日です。数日前から声がかすれてきてはいましたが、発声するのに力まなければならなくなりました。月曜日に医者に行くつもりでしたが、日曜の朝には、口パクだけで声が出ない、焦りました。特に今日は収穫感謝と子ども祝福式の日。何とか根性出して乗り切りましたが案の定、翌日には全く声が出なくなってしまいました。
火曜日は定期教区会でした。点呼での返事もできず、代返を依頼しました。私はとうとう自分の声を喪失してしまったのです。
クリスマス物語では不思議な誕生の話が二人の女性によって展開されていきます。すぐには思い出せなくても誰もが良く知っている出生の秘密の物語です。
ひとりは言うまでもなくマリアとイエス様の懐妊です。もうひとりはエリサベツと懐妊です。さぁ誰でしょう。
エリサベツの夫はザカリヤという名の神殿に仕える祭司でした。この夫婦は子に恵まれず諦めていましたが、御使いが夫ザカリヤに妻の懐妊を伝えます。彼は常識や経験に基づいた判断に固執するあまり、(後の)ヨハネの誕生をあり得ないことだと主張したので、『時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから』と、神のお叱りを受けて声を取り上げられてしまいました。
このザカリヤが祭司であることと、降臨節という時節であることが相重なって、「今私に起きているこの状態や状況は何を意味し、私に何を告げようとしているのか」などという大層な宿題を意識させるクリスマスを過ごす羽目、いえ、過ごす恵みを与えて下さいました。
言葉を失い、主張する手段を失ったザカリヤは声を失った期間が悔い改めの時になりました。彼は静かな沈黙の内に神の言をかみしめることを求められました。語る声を失うことは、ただ人間の経験や常識の言葉だけをしゃべり続けようとする自己中の主張に対する警告でもありました。
私も同様ですか?とお尋ねしても返事は聞こえてきませんが、発言に制限が課せられたので、聴くことが必然的に多くなります。意識しない内に、すぐ言い返すようになっていることに気づきます。私が言い返さない・返せないことをいいことに、耳の痛いことを聴くだけ。又、外出しても、こんなに声を出しているのかと驚きます。会話でなくとも音声を発しないと存在自体に気づいて貰えない、それが自分の身の安全に直結しているのです。そんな危険に満ちた社会に私達は住んでいるのです。これには驚きました。
一ヶ月を経て少し回復はしていますが、まだ以前の状態には戻っておりません。声を失ったことで、対話は「話し方」ではなく「聴き方」にあること、声を出したくても声も出せずに存在までも気づいてもらえない者がいるのではないか…今年のクリスマスは主なる神が意識と関心を向けている場所を示されたように思うのです。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(新潟聖パウロ教会牧師)