教会・幼稚園に出入りしているキリスト教書店さんが、毎月プレゼントしてくださる雑誌『いのちのことば』を楽しみにして読んでいる。中でも連載の「わが父の家には住処おほし―北九州・絆の創造の現場から」(筆者は奥田知志氏)は、毎号示唆を受ける文章である。21年間ホームレス支援に取り組んできた奥田氏自らの、経験に基づいた話は、私にとって非常に説得力のあるものであると同時に、心に突き刺さってくるトゲでもある。
7月号も、私は奥田氏からきびしく叱咤されているような思いで、その文章を読んだ。ホームレス状態になった人にとって一番苦しいのは、《隣人不在の状態》。誰も彼の存在を気にも留めず、関わろうともせず「向こう側を」通り過ぎる。この隣人不在の状態は《路上だけの問題ではない》と奥田氏は言う。《2000年5月に起こった佐賀バスジャック事件で逮捕された当時17歳の少年の母がある大学教授に宛てた手紙》に、いじめが原因で中学3年生の頃から、荒れ始めた息子のことを数々の施設に相談しても、《動いてくださる先生は一人もいらっしゃらない》。朝日新聞に掲載されたこの母親の手紙について奥田氏は次のように書いている。《手紙を読んだ日の衝撃を忘れない。教会はあの日何をしていたのか、私はどこにいたのか。》
奥田氏によれば、私たちは「関わらない理由」を準備し、「助けないための理屈」として「自己責任論」を振りかざしているというのである。「自分の責任なのだから自分で解決しなさい。私たちは他人なのだから要らない口出しはしないよ」ということか。
見えないふりをして向こう側をさっさと通り過ぎていけば、煩わしい関わりを持たなくても済む。自分の時間、自分の自由、自分のお金を守ることが出来る。
本当にそれでいいのか! 奥田氏は《「赤の他人の事柄に口を出せ」とイエスは仰る》と書いている。十字架上で祭司長たちや律法学者たちから嘲弄された。《「他人のことに必死になって自分は後回し。イエスはアホや」と。》そして今日に生きる《私たちの信仰をイエスの十字架が問う。「賢く生きすぎていないか」。「キリスト者としてちゃんと嘲弄されているか」》。
今年も、8月がめぐって来た。私は昨年訪れた広島、そして沖縄をまざまざと思い出す。
かつて人間が犯した恐ろしい所業、そして今も続く沖縄に於ける「捨て石作戦」…。
いつの間にか沖縄に関する報道をほとんど目や耳にすることがなくなってしまった。米軍基地があることによって、命、生活を脅かされている沖縄の人たちのことに対する関心がまた薄れてきてしまっているのではないだろうか。脅かされているのは私たち沖縄県民以外の者の責任。日米安保体制を認め、沖縄県にのみ米軍基地を押しつけているのは他ならぬ私たち本土の人間ではないか。これは他人事ではない。軍事力による安全保障が必要と考えるならば、米軍基地は日本全土に平等に配置されなければならない。毎日轟音が鳴り響く生活、いつ頭上に米軍ヘリが落ちてこないかもわからない危険な状況も日本全土で共有すべきである。
あまり偉そうなことは言えない。私はこれまで、見て見ぬふりをして傍らを通り過ぎることが多かった。しかし、せめて心の痛みを感じ、その痛みを持ち続ける者でありたいと思っている。
司祭 イサク 伊 藤 幸 雄
(一宮聖光教会牧師・可児伝道所管理司祭)