『ウォーラー司祭のこと』

上田に赴任し、長野の管理も命ぜられたことにより、J・ウォーラー司祭のことをより身近に感じるようになりました。特に、昨年、長野聖救主教会から「ウォーラー司祭その生涯と家庭」という立派な本が出され、それを読ませていただいていたので余計そんな思いが強くしています。ウォーラー司祭に始まる長野聖救主教会の司牧者の末席にわたしも連ならせていただいたのかと思うと恐れ多い気がします。
ウォーラー司祭といえば長野というイメージがありましたが、あらためて前掲書を読んでみますと、実は長い間上田の牧師でもあったことがわかります。1908年(明治41年)から1931年(昭和6年)までの23年間、子息のW.ウォーラー司祭がその後を継がれるまで、最初は上田に住み、1915年からは長野に定住し、上田の牧師、長野の管理をされたのです。

先日、長野伝道区の合同礼拝が上田で行われましたが、その折、ある司祭が「ウォーラー先生はこの辺の教会を全部建てたのですね」と言われました。そう思って見てみますと、確かに、東北信の教会・施設はすべてウォーラー司祭によって建てられているのです。長野の聖堂はもちろん、飯山、小布施、稲荷山、上田のそれぞれの聖堂、そして新生療養所と、軒並みウォーラー司祭が直接関わっています。ウォーラー司祭は長野に来てからカナダに帰るまでの半世紀、長野県の、特に東北信の実質的な責任者でありましたので聖堂や施設建設がウォーラー司祭の責任の下で行われても不思議ではないのですが、それにしても、1898年に長野の聖堂を建ててから30年以上を経て、堰を切ったように建築を進めていることに驚かされます。

落成、聖別順に記しますと、新生療養所1932年9月9日、上田32年9月29日、飯山復活教会32年10月18日、稲荷山諸聖徒教会33年11月23日、新生礼拝堂34年6月25日となります。「中部教区センター」ひとつで悩んでいるのがいやになってしまうくらいです。ハミルトン主教はウォーラー司祭を「ビジネスと建築の才能を有する実務肌の人であった」(前掲書)と追想していますが、確かにその通りだったのでしょう。

そして、それらの建築を終え1935年には現職を辞し自費宣教師となられました。ハミルトン主教もその年退職されました。時代もだんだんと宣教師には厳しい時代になってきていました。そんなことを見越しての、半世紀にわたるご自分の働きの仕上げという意味での教会建築だったのでしょうか。戦争のための無念の帰国後、1945年に死去され、カナダに眠っておられますが、その魂は生涯の半分以上を過ごし、愛する妻や息子の眠るこの日本にあるに違いありません。

司祭 パウロ 渋澤一郎
(上田聖ミカエル及諸天使教会牧師)