『インマヌエル』

見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
イエス・キリストの誕生物語は、マタイ福音書とルカ福音書の二つにあるが、この聖句はマタイ1章23節で、「インマヌエル」という言葉でよく知られている。
インマヌエルは旧約聖書のイザヤ書7、8章に出てくる言葉で、冒頭の聖句中のインマヌエルは7章14節のものである。ギリシャ語で「神はメトゥ(と共に)・ヘーモーン(我々)」となる―マタイ福音書の誕生物語を読む場合、この言葉を覚えておこう。そしてマタイ福音書の特徴を見てみよう。
ルカ福音書には無くマタイ福音書特有のこの聖句について考えてみたい。インマヌエルはヘブライ語で、意味は「神は我々と共におられる」である。「我々と共に」であり、「われと共に」ではない。
マタイ福音書の誕生物語では、イエスは「王」として生まれる。占星術の学者たちのヘロデ王への言葉は、「ユダヤ人の『王』としてお生まれになった方は、どこにおられますか」とある。このことによってヘロデは自分の「王位」が危ないと不安を感じ、急いで祭司長たちや律法学者たちに調べさせ、誕生の地は「ベツレヘム」であると教えられる。ヘロデ王は「見つかったら知らせてくれ」と言って送り出し、「私も行って拝もう」などと心にも無いことを口にする。
イエスが王として述べられる記事はさらに続く。「彼らはひれ伏して幼子を拝み、贈り物をささげた」と。そこには、身ごもっているマリアとヨセフの、人口調査のための旅も馬小屋も出てこないし、羊飼いという社会の底辺を生きる人たちも登場しない。
しかし、マタイ福音書のイエスは単なる権勢を誇る「王」ではなく無力な王なのである。それは以下の物語と地上の生涯でわかる。占星術の学者たちがヘロデ王に知らせないで帰国の途に着くと彼は大いに怒り「ベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を、ひとり残さず」殺すのである。幼子はマリア、ヨセフと、その危難の直前に天使の言葉に従いエジプトに逃れた。ようやくヘロデ後の時代になったので帰還しようとするが、大王の子供たちが支配していて危険なので、ナザレの町へひきこもる。王になる人物らしくない。
続く物語は他の福音書と同じくイエスの地上の生涯の叙述であり、神の国についての教え、病人のいやしが述べられる。そして十字架の死、復活が詳述される。
最終章28章に至り、イエスは11人の弟子たちに全世界への宣教命令を与える。その最後の文章に注目したい。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」であるが、最後の最後でまたインマヌエルとよく似た言葉が出てくる。メトゥ(と共に)・ヒューモーン(あなたがた)。
「神は我々と共におられる」「わたしはあなたがたと共にいる」。この「わたし」とはイエス・キリストのことである。マタイ福音書は、神があるいはイエスが我々教会と共にいるという、初めと終わりの宣言で、何と囲まれている福音書なのである。
主教 フランシス 森 紀旦