『「せっぱつまって・・・!」』

『しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。』  (詩編51:19)
ある日、ナタンがダビデ王を訪ね、謎めいた話を語り始め、王としてこの話をどうお思いになるかと訊ねると、王は「そんなことをした男は死罪だ」と激怒します。ナタンは静かに王に向かい「その男はあなただ」と告げるのです。
部下をアンモン人との戦いに出陣させ、自分ひとりエルサレムに残り、情欲のために部下の妻を召し入れ、女が身ごもるやその悪事を糊こ塗とするためにその夫である部下のご機嫌をあれこれ取るものの、それが上手くいかずと知るや故意にその部下を戦死させ、夫の死の悲しみにくれる女を召し入れて妻とする。読むたびに何とひどいことを・・・。憤りを覚えるところです。
ダビデは誰にも知られぬようにひた隠しにしていた罪を暴かれてしまいます。当時は王の故に居直ってもおかしくない時代であるにもかかわらず、彼は懺悔の祈りをせずにはおられませんでした。やはりダビデのダビデたるところでありましょう。王であることも、人目をはばかることも忘れ、神の前にただ一個の罪人として泣き崩れた彼の砕けた心を歌ったのがこの詩編なのです。
同じくヘロデ王も姦淫の罪を犯します。彼は自分に向かって意見したバプテスマのヨハネを投獄し、悩みながらも処刑してしまいます。ヘロデはその後、神の前にその罪を悔いることなしに生涯を終えることになります。
『人間というものは知らず知らずの内に、変わっていってしまうものなの・・・。
せっぱつまった状態に置かれると、そうすることが正しいかどうかを見極めずに、取り敢えず問題を解決しようと飛びついてしまう・・・。そのうち、それが正しいという錯覚に陥り、そういう生き方をするうちにそれに慣れて道理を見失い、目先の事しか見えなくなってしまう・・・。』 (韓国ドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」より)
罪を犯してもなかなかそれを認めようとせず、これくらいは誰でもしているではないかと思ってしまい、素直な砕けた心を持つことができなくなっていきます。自分はヘロデとは違うと誰が胸を張って言えるでしょう。それは個人のレベルにおいても然り、国や、国と国とのレベルにおいても、権力や武力、はたまた正義をかさに押さえつけ、自らの非や罪悪を認めるどころか、自らを正当化することに専心します。
しかしダビデはヘロデと違って自分の罪を悔いたのです。神の前にいかに自分が罪深く、自分ではどうすることもできない罪を悔い、ひたすら神に救いを求めます。それ故神に選ばれた王としての歩みを続けることを許されたのです。罪に泣いたダビデに与えられた救いの約束、それは将まさに、イエスの十字架によって今の私達にももたらされている救いの約束でもあることを今一度心に留め、赦され、生かされていること、そして、なにゆえ生かされているのか、と考えずにはおられないところではないでしょうか。
司祭 エリエゼル 中尾 志朗
(松本聖十字教会牧師)