N司祭が昨年末、胆嚢摘出の手術を受けました。医者によると胆嚢はあってもなくてもいいものだそうです。N司祭がその話をある主教にしたところその主教は「神様が創ったものにあってもなくてもいいものはない」と言われたとのこと。
その話を聞いて渡辺和子シスター著『面倒だから、しよう』の中に「この世に雑用という用はない。用を雑にした時に生まれる」という言葉を思い出しました。シスターは修練時代、修道院で食事の時に食器を並べる仕事を知らず知らずのうちに知的な刺激の少ない単純作業と考えてしまい、ある時、修練長から「あなたは時間を無駄にしている」と注意をされ、自分がいつの間にか不遜な人間になってしまっていたことに気付いたそうです。それをきっかけにお皿を並べる時には一人ひとりのシスターを思い浮かべ、愛と祈りを込めて並べるようにしたとのことです。時間の使い方は命の使い方であり、用を雑にした時に、雑用は生まれるのだということを心に叩き込まれた一コマだったと書いておられます。
神様の働きはなかなか結果の見えない単純作業のようなところがあります。礼拝もそうかもしれません。いつの間にか単純だ、マンネリだ、つまらないと思ってしまうこともあるでしょう。しかし、神様がわたしたちに与えていてくださるものはすべて意味のあることであり、必要のないものは何一つないのです。今自分が置かれている状況や与えられている働きを「雑」と捉えるのか、それとも神様が今自分に一番必要なものとして与えていてくれる大切なものと捉えるのか、その違いは大きいのです。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16・10)のです。