「ヨセフの決断…『正しさ』から『み言葉』へ」

主イエス様のご降誕おめでとうございます。

クリスマスには世界中の多くの人たちが「メリー・クリスマス」と挨拶を交わします。しかし、聖書を見ますと、イエス様の誕生はヨセフとマリアにとっては決しておめでたい、うれしいことではありませんでした。二人にとってイエス様の誕生はまさに青天のへきれきだったのです。

ヨセフはマリアと婚約していました。しかし、結婚する前にマリアが聖霊によって身ごもります。生まれてくるであろう子が自分の子ではないことはヨセフが一番よく分かっていました。マリアが他の男性と関係を持ったことは明らかでした。彼は「正しい人であったので」マリアとの婚約を解消しようとします。この場合「正しい人であったので」婚約を解消しようと思ったということには少し矛盾があります。なぜならば、ここで言う「正しい」とは彼が律法に忠実であるという意味だからであり、律法的な正しさから言えばマリアは姦淫の罪で石打ちの刑にならなければならないからです。ですから、彼が正しい人であることを貫こうとしますと、彼女の罪を白日のもとにさらけ出さなければならないのです。

しかし、ヨセフはマリアがそうなることには耐えられません。ですから、彼女のことを表ざたにしないで婚約を解消しようとします。それは彼の優しさでもありました。しかし、律法的にはそれは「正しい」ことではありません。ここに彼の「正しさ」は行き詰まり、挫折します。結局、律法の正しさは人間を生かさないということなのです。

しかし、彼が律法の正しさから挫折したことで神様の計画が実現に向かいます。人間の正しさは時として神様の計画を妨げることもあるのです。それまでヨセフはマリアへの疑いや、自分が律法に忠実になりきれなかったことで苦悩の中にいました。しかし、天使の言葉を聞き、夢から覚めると決然としてマリアを妻にするのでした。ヨセフは自分の正しさよりも神様のみ言葉に従うことを選んだのです。その決断がなければクリスマスはあり得ませんでした。神のみ言葉が彼の正しさを越えたのです。神様はいつもわたしたち人間の正しさを包み込み、ご自分のみ心の成就へと変えてくださるのです。しかも、律法の正しさによってではイエス様を神の子として信じることが難しいということも降誕物語はわたしたちに教えてくれます。ヨセフは天使が伝えた神のみ言葉に従ってマリアを受け入れ、イエス様を受け入れました。

神様は時として人間に厳しさを強いることがあります。クリスマスの出来事は特にそうです。若いカップルには耐えられないほどの試練でした。しかし、ヨセフもマリアもみ言葉を受け入れることによってその試練を乗り越え、他の誰もが与えられなかった大きな恵みが与えられました。わたしたちは聖書のみ言葉を自分の都合に合わせて聴こうとしたり、自分の都合に合わせて解釈しようとしたりしがちです。しかし、わたしたちはみ言葉に”聴く”者です。み言葉をわたしたちに合わせるのではありません。わたしたちがみ言葉に聴き従う時、神様の大きな恵みと祝福にあずかることができることをクリスマスの物語はわたしたちに明確に語っています。