〝この地上における〈正義・平和・いのち〉の実現のために〟

 ロシアによるウクライナに対する軍事侵攻と、いのちの蹂躙に心を痛めます。世界のキリスト者たちと共に、一日も早く平和が回復されることを祈り求めます。
 今回の事態の背景には、14世紀以来のロシアとウクライナにおける正教会間の歴史的緊張関係があります。1991年にウクライナは国家として独立しましたが、従来の「ウクライナ正教会|モスクワ総主教庁」はロシア正教会の枝教会であり、モスクワ総主教の精神的な権威の下にあり続けていました。それは、多くのウクライナ人にとっては受け入れがたいものでした。そうした中、モスクワから独立したウクライナの真の国民教会の創立が試みられ、2019年1月、全世界の東方正教会の精神的首位者であるコンスタンティノープル総主教バルトロマイ1世は、ついに新しい教会である「ウクライナ正教会」を正式に承認しました。
 この2つの正教会をめぐる対立は、ロシア人とウクライナ人の関係についての2つの異なる歴史的視点を反映しています。ロシア正教会にとって、ロシア人とウクライナ人はあくまでも1つの民族であり、単一の教会が彼らを統合しなければなりませんでした。プーチン大統領は、最近の論考の中でまさにこの主張を展開し、「ウクライナ正教会」をロシア人とウクライナ人の「精神的統一に対する攻撃」と激しく批判しました。
 一方で、「ウクライナ正教会」の初代首座主教であるメトロポリタン・エピファニーは、「ロシア帝国の伝統」を断固として拒絶し、独自の文化を持つ独立した民として、ウクライナ人は独立した教会を必要としていると明言します。
 同じイエス・キリストを主と告白する者たちの対立が、国家の軍事的暴力の一つの根拠とされることは大変悲しいことです。であるからこそ、この地上における〈正義・平和・いのち〉の実現を願い求める「エキュメニカル運動」は、きわめて重要な私たちのミッションなのです。

〝マリア・グレイスの主教按手を覚えて〟

 昨年、11月3日(水)に行われた北海道教区主教選挙で、マリア・グレイス笹森田鶴司祭が選出されました。日本聖公会主教会の同意、被選者の受諾を経て、同月26日、笹森司祭は正式に主教被選者となられ、主教按手式が4月23日(土)に予定されています。按手が実現すれば日本聖公会、また東アジアで初の女性の主教が誕生することになり、私のもとにも世界中から祝福のメッセージが殺到しています。日本聖公会において最初の女性の執事、女性の司祭を誕生させたのは、いずれも中部教区(渋川良子師)であり、そういう意味でも、この度の主教按手は私たちにとっても大いなる祝福となります。
 一方で、私にとっては、長年に亘って共に宣教の働きに参与してきた信頼すべき同僚が主教として召されることを喜ぶものであって、その方がたまたま女性であったということでもあります。『1995年日本聖公会宣教協議会・宣言』の草稿を、文字通り夜を徹して書き上げたのは、当時二人とも執事であった田鶴先生と私、そして私たちの畏友、故八幡明彦兄の30代同期青年でした。「宣言」の中で、私たちはこう記しました。
 「私たちは、支配者の物語にではなく、民の物語に聴き続けます。そこから、私たちは、私たち自身の〈物語〉を語ります。自らの言葉で日本聖公会の歴史と現在、そして未来を語ります。こうした努力をして初めて、私たちは主イエス・キリストの福音を受肉化できると信じます」
 これは同時に、私たち自身の「宣言」でもありました。私たちのこの盟約は、今に至るまで、いささかも揺らいではいないと確信しています。そのことを再確認するために、私は、一昨年の主教按手式において田鶴司祭にチャズブルを着せてもらいました。今度は、私が彼女の主教按手の証人となり、そして、主教団の同僚性(collegiality)の教理のもとに、彼女がこれから担う重荷を私も共に担います。

〝百年前の祈りと支え、そして宣教の苦闘〟

 先日、高田降臨教会を訪問した時のことです。ベストリーに古い文書の入った小さな額縁が掛けられているのに気づきました。それには1910年12月4日の日付があり、「日本聖公会高田講義所」開設資金の3分の1は、カナダ・トロント聖ジョージ教会の篤信なる女性教役者の遺言による寄附であり、残りはトロント大学の「トリニチー學院」の神学生たちからの寄附であったことが記されていました。
 1919年に来日し、後に岡谷聖バルナバ教会を創立したホリス・ハミルトン・コーリー司祭が、日本で最初に派遣されたのも、この高田の教会でした。私が、トロントにあるカナダ聖公会アーカイブスを調査した際に、コーリー司祭が当時のハミルトン主教に宛てた直筆の手紙を発見したのですが、そこにはこう書かれていました。
 「高田、月曜日、2月6日、1922年。親愛なる私の主教さま。あなたの優しいお手紙に、心から感謝いたします。ハミルトン夫人が、素敵な本物のカナダのチーズを送ってくださったことにも、心からの感謝をお伝えしたく思います。懐かしい故郷の音が聴こえてきそうでした。私たちは、これまで、私たちの棒給で何とか生活できてきましたし、借金もありません。しかしながら、こちらに来て以来、常に、私たちの月給は、次のお給料をいただく10日も前には尽き果ててしまいます。例えば、私たちは、こちらに来てからというもの、服の一つも買えていないのです」
 この一枚の書簡には、宣教師たちの、慣れない土地、決して豊かではない生活の中で、しかし、そのまさしくそれぞれに与えられた「ミッション」に、誠心誠意取り組む姿があります。今の私たちがあるのも、100年前のカナダ聖公会のみなさんの祈りと支え、そして、こうした宣教師たちの「苦闘」があったからこそであることを、心に刻みたいのです。

〝このことだけは徹底して親ばかでありたい〟

 2018年2月11日(日)付『岐阜新聞』に、飛騨市長である都竹淳也さんは、このような文章を寄せておられます。
 「私の次男は最重度の知的障がいのある自閉症児である。特別支援学校中学部の1年生。多くの方々のご支援をいただきながら暮らしている。次男の障がいが分かったのは2歳の頃だ。言葉の遅れなどが顕著で、不安に駆られ、医師の診察を受け、自閉症との診断を受けた。今も困難なことも多いが、我が子はかわいい」「次男のいいところはどこだろうと毎日見ているうちに、同じように職場の部下や同僚を見るようになり、強みを伸ばす組織運営をするようになった。弱い立場の人たちを意識するようになり、障がい児者だけでなく、病気や生活困窮、ひとり親家庭など、厳しい状況にいる人たちを助けたいと強く思うようになった。そうした頃、県職員だった私は、願い叶って障がい児者支援の仕事に就くことができ、重症心身障がい児者を医療面から支える仕事に打ち込んだ。
 市長となった今も、弱い立場の方々の支援は市政の最重点だ。こうした分野に取り組むのは、誤解を恐れずに言えば、自分の子どものためである。公職にある自分が支援を充実させれば、多くの方々が救われる。それは次男が私をしてなさしめたことであり、この子が世の中のお役に立てたことになるからだ。このことだけは徹底して親ばかでありたいと思う」
 確かに、主イエス・キリストがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けた時に聴いた天からの言葉は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(ルカ3:22)でした。イエス・キリストも私たち一人ひとりを「愛する子」として徹底して大切にしてくださった。そのような愛をもって、私たちも、私たちの隣り人のために、まるで親ばかのように無条件で愛することが求められているのだと思うのです。

〝コロナ時代における新しい神学を〟

去る3月20日(土)に開催されたキリスト新聞社主催のオンライン配信イベント「コロナ時代に問う『神学+教育2.0』」に、いずれも畏友の同志社大学の小原克博教授、関西学院大学の中道基夫教授と共に、パネリストとして参加しました。各パネリストが奉仕する大学の現状や、オンラインかリアルかという二者択一の議論を超えて、「ポストコロナ」のキリスト教、学校、教会が生きる道について語り合いました。私も小原先生や中道先生からさまざまな気づきを与えられました。
 中道先生は、「オンラインによって、教会に集まる意味や礼拝の本質が問われることになったと同時に、これまで多忙であった牧師が信徒と共に学ぶ時間が取れるようになり、普段は仕事などで主日に教会に行くことが困難な人々に対しての宣教のチャンスが生まれたのではないか」と指摘されました。小原先生は、「礼拝とは説教を聴いていれば良いというものではなく、教会はキリストの体であり、すべての者がキリストの体につながっていることを再確認する場である。そう考えるとき、本当にオンラインで十分なのか考える必要がある。私たちはあえて自由を放棄して、毎週教会に集っている。不自由で不便な教会には、世の中にはないものが教会にはあるのだということを示し続けなければならない」と問われます。
 私は聖公会の立場から、北海道教区の植松誠主教さまの牧会実践を紹介しながら、一人ひとりへの丁寧な顔と顔を合わせた聖餐を通した具体的なつながりが、私たちにとっていかに重要なものであるかを強調させていただきました。
 新型コロナウイルス感染症パンデミックという危機を経験した私たちが、社会に通用する言葉で、新しい神学をどのように語っていくのかが、教会の宣教的・社会的責任であるという点で、私たちは一致しました。

本の紹介「キリスト者として生きる」

中部教区の西原廉太主教が監訳をおこなった「キリスト者として生きる」がこの度教文館より出版されました。西原主教からの本の紹介と、「[月刊]キリスト教書評誌『本のひろば』」に掲載された東京教区笹森田鶴司祭の書評とあわせてご紹介いたします。

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西原主教からのコメント

ローワン・ウィリアムズ第104代カンタベリー大主教の深い神学とスピリチュアリティが溢れる素晴らしい書です。黙想の手がかりとしても、お勧めいたします。

「人々が最も危険にさらされている場所、人々が最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところに、キリスト者の姿をきっと見いだせるのです」「もし洗礼を受けることがイエスのいるところに導かれることであれば、洗礼を受けた人は目的を見失った人々のその混沌と貧しさへと導かれます」

ローワン・ウィリアムズ<著>『キリスト者として生きる ―洗礼、聖書、聖餐、祈り― 』ネルソン橋本ジョシュア諒<訳>・西原廉太<監訳>(教文館、2021年)

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「イエスと共に歩み出す勇気をくれる一書」 <評者>笹森田鶴

わたしは霊的に飢え渇いていました。同様に身体的にも疲れ果てていました。そのことを周囲に気づかれないように振る舞うために、できるだけ沈み込まないで日々を送る努力を無意識にし続けていました。そのような時に本著に出会うことになり、わたしは自身の信仰の根本を問われ、チャレンジと同時に深い慰めを受けることになりました。むしろ、沈み込むことの意義とそのままでも立ち上がっていく力を与えられたのです。

本著は、前カンタベリー大主教(イングランド聖公会の最高責任者)ローワン・ウィリアムズ師の、カンタベリー大主教退任後に同大聖堂で行われた聖週の定例公開講座の講演に基づいています。タイトルにあるように「キリスト者として生きる」上で必要不可欠で根本的な4つの要素−洗礼、聖書、聖餐、祈り−について、読者がそれぞれ思い巡らすことに招いてくれる著作です。聖書と教父たちの言葉に基づいた幅広い見識と深い洞察力をもって、しかも読者が理解しやすい語りかけによって構成されています。すばらしい人生を送るための考察でも指南書でもなく、あくまでも混沌としたこの世界の中でキリスト者として生きることの意義といのちの本質について語ります。

たとえば洗礼の項目において、著者はイエスのいのちと死にあずかるということの具体的な生き様を提示します。洗礼によってキリスト者が真の人間への回復への道のりを歩むことができるために、イエスはわたしたち人間の混沌の世界−人びとが最も危険にさらされている場所、最も混乱し、傷つけられ、貧しくされたところ−に降りてこなければならなかったと言います。そしてそのような無防備なイエスに従うということは、キリスト者が自身の人生の混沌に気づき、同時に他者の壊れた人間性に巻き込まれ、「貧しく、汚染され、壊れた世界の中心に置かれている意味」を受け止めることだと繰り返します。そのような世界に身を置き、リスクを追う時、聖霊を受ける準備が整えられるというのです。

これらは、著者が前職に就いていた折の世界中の危機や困難の中に生きる人びととの出会いを通して確信をもって語られる言葉です。その意味でコロナ禍を経験する以前の講座であるにもかかわらず、現代の混沌の状況の中にあるキリスト者にとって根源的な問いかけや示唆を与えてくれます。

世界的な感染症のパンデミックによって全く違う日常の生活や信仰生活を余儀なくされているキリスト者にとって、今この世にキリスト者として生きる意味や自らの柱を再確認するための必読書です。個人でもグループでも読みすすめることを手助けする「振り返りやディスカッションのために」という問いも項目ごとに用意されており、さまざまな使用が可能になっています。

本著は信仰の旅をしている誰にとっても重要な霊的なダイレクションを指し示してくれます。おそらくわたしはこれから何度もこの本を読み返し、それまでの道筋を振り返りながら初心に戻らされる信仰の旅を過ごすことでしょう。

(ささもり・たづ=日本聖公会東京教区司祭)

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尚、購入希望の方は中部教区センターでも若干取り扱いがございます。お問い合わせください。

2021年イースター・メッセージ

2021年4月4日
主教 アシジのフランシス 西原廉太

[以下動画の内容をテキストで掲載]

 主なる神さま、私たちがしばらくの間、主のご復活の意味について思いめぐらすことができますように強め導いてください。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン

 復活日、イースターは、古代の教会においてはクリスマスよりも重要な祝日でした。洗礼も、復活日の早朝もしくは前日深夜に行われる伝統がありました。洗礼とはその人が新たに主と出会うことによって、新たに生まれることを意味していましたので、洗礼が行われるのは復活日が最も相応しかったのであります。

 イエスさまが十字架につけられ息を引き取られた。死んでしまった。弟子たちにとってこれほどの衝撃はありませんでした。それは、究極の断絶であり、絶望でありました。弟子たちは、混乱の中、散り散りに逃げてしまいました。しかし、マグダラのマリア、サロメたち女性たちは、絶望の中にあっても、ずっとイエスさまのみもとに居続けたのであります。そして、女性たちは、イエスさまに香料を塗るために、イエスが葬られた墓に向かいます。十字架からおろされた時は、安息日が差し迫って香料を塗ることができないまま、大急ぎで埋葬されてしまったのです。油を塗ることは、女性たちにとってイエスさまのためにできる最後の奉仕、精一杯の業でありました。すると、驚くべきことに、墓の石は転がされ、墓は空であった。そこにはある若者がいて、こう告げます。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」

 マルコによる福音書はここで終わります。マルコによる福音書は、4つある福音書の中でも最も古いものです。マタイによる福音書もルカによる福音書も、マルコをもとにしています。そのようなことから、マルコによる福音書は、「原福音」とも呼ばれています。この最古の福音には、実際に主がよみがえられてイエスとマリアや弟子たちが出会う記述はありません。この2000年の教会の歴史の中でも、「復活」そのものへの疑問がたびたび出されますがその根拠の一つが、原福音であるマルコには復活の記録がないことがあげられてきました。

 ここで、原始キリスト教会の最古の伝承について見てみたいと思います。それは、実はパウロの手紙であります、コリントの信徒への手紙一、15:3-5に隠されています。

最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの「罪」のために「死んだ」こと、「葬られた」こと、また、聖書に書いてあるとおり「三日目」に「復活した」こと、ケファに現れ、それから十二人に「現れた」ことです。

(聖書協会共同訳)

 「最も大切なこととして、パウロ自身も受けた」伝承です。それをパウロがコリントの人びとに伝えている記録です。これは「ケリュグマ」(「教え」という意味)と呼ばれるもので、イエスさまの復活についての教えです。このケリュグマが後に発展して、使徒信経やニケヤ信経になりました。このケリュグマが書かれたのは、紀元55年頃と言われていますので、その時点ですでに伝承されていたものですから、イエスの死後相当早い段階でこのケリュグマは形成され、伝承されていました。ギリシャ語原文を直訳しますと、これがはっきりとした韻文で書かれていることがわかります。

 このケリュグマは、「聖書に書いてあるとおり」で始まる2つの文章で構成されています。そして、「、」でそれぞれの文章は分かれます。それぞれの前半の「罪」と「三日目」が対応し、「死んだこと」と「復活したこと」が対応しています。この前半部は、神学的な表現であり、信仰告白の部分です。それに対して、後半で対応する「葬られたこと」「現われたこと」は、純粋に歴史的な出来事、事実起こったことの記録、伝承だと考えられるのです。すなわち、「葬られたこと」「現われたこと」を神学的に、信仰的に理解した結果が、前半部なのです。

 つまり、イエスさまは確かに「葬られた」。それは本日のマルコによる福音書も証言しているところです。そしてさらには、「現われた」と記録せざるを得ないような出来事が起こったのであろうと思うのであります。「現われた」というのは、歴史的な核を持つ歴史的事実なのだろうと言うことができます。確かにそうでなければ、キリスト教はこのように2000年も続き、また世界中に広まることはなかったのでしょう。間違いなく、イエスさまは、マリアたちに、弟子たちに何らかの形で「現われられた」のです。

 私は、以前、東京教区のある教会の主日礼拝をお手伝いしていたことがありました。その教会でNさんという女性の信徒さんと親しくさせていただいておりました。その後、Nさんはお病気のため86歳で主のもとに召されました。Nさんは熱心で、礼拝を欠かしたことがないような方でした。Nさんのお連れ合い、ご主人は40年前に亡くなられ、Nさんは独り身で、老人ホームで暮らされていました。

 私がその教会に伺いはじめてから2年ばかりが経った頃のことですが、Nさんは次第に認知症が進むようになり、教会にもお越しになれなくなりました。それから3年経った年の秋に、私は、Nさんが入っておられる老人ホームを訪問しました。Nさんは椅子にこしかけておられ、その姿は以前のままでしたが、私が声をかけても、表情はまったく動くことがなく、あの優しい笑顔はありませんでした。職員の方のお話によれば、Nさんはここ1年ほど、ほとんど声も出なくなってしまい、誰が訪ねてきても分からず、反応もなくなっているとのことでした。

 私は、Nさんの手をとって、お祈りをしました。すると、最初はまるで力のなかったNさんの手がぎゅっと私の手を握り返してこられたのです。

 そして、Nさんは、小さな声で、しかしはっきりとこう繰り返されたのです。

 「イエスさま、ケンジをお願いします。イエスさま、ケンジをお願いします。」

 そう繰り返されるのです。その時、Nさんはぼろぼろと涙を流されて、その涙がほほを伝っていきました。その場におられた職員の方々も非常に驚いておられました。

 それはほんの一瞬の出来事でした。私が、帰る時には、Nさんはもういつものように固い表情に戻り、一言も言葉を出されることはありませんでした。

 あの時、Nさんが声に出された「ケンジ」とはどなたなのかは謎のままでした。Nさんのご主人の名前ではありませんでしたし、職員の方も心当たりがないということでした。きっと、混濁されていたのだろうと思ったのです。

 Nさんのお葬式に参列した時に、Nさんを良く知る方から大切な話を伺うことができました。実は、Nさんには、一人息子さんがおられたのだけれども、Nさんが26歳の頃、その息子さんがまだ3歳の時に、原因不明の熱病にかかり天に召されてしまった、のだということ。そして、その息子さんのお名前は、「健二」君であったのでした。

 私は、今、きっとあの一瞬、Nさんは60年前に戻られていたのだと思うのです。60年前に、Nさんが本当に経験されたことをあの時に繰り返されたのだと思うのであります。60年前に、きっとNさんは、本当にイエスさまの手を握り締めながら、健二君のことを祈られていたに違いありません。2000年前のマリアや弟子たちが経験したように、イエスさまは、事実、Nさんの前に「現われられ」たのだと思うのであります。

 私たちも、私たちの前にイエスさまが事実現れられる時があるのでありましょう。その時が、いつなのかは分かりませんし、そしてまた、もうすでに現われておられるのかも知れません。エマオの途上でのクレオパたちのように、後から、それが主であったことに気づくのかも知れません。

 空の墓の前で、若者は、マリアたちにこう告げました。

 「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる。」 私たちにとって、主と出会う場所である「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。みなさんにとって「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか。そんなことを、今日、この復活日に黙想できればと思います。

 一言お祈りします。

 主なる神さま。主イエス・キリストは弟子たちに現われられ、そして私たちにも現われてくださいます。どうか、私たち一人ひとりが、そのご復活の主と出会うガリラヤへと辿り着くことができますように、どうぞ強め、導いてください。

 この祈りを尊き主イエス・キリストのみ名を通してみ前におささげいたします。

 アーメン

麦畑(「ともしび」3・4月号)

 主教としての働きをはじめて、あらためて感謝なのは、教区の一つひとつの教会を訪問できることです。降臨節には、実に30年ぶりに一宮聖光教会を訪れる機会が与えられました。現在、聖堂の新築中ですが、旧聖堂での主教司式の最後の聖餐式を信徒のみなさまと共におささげすることができました。
 礼拝前、聖堂前の植え込みに、少し錆びた恐竜のオブジェが置かれているのを発見しました。信徒さんに伺うと、それは長い間司牧された菊田謙司祭の娘さんで、かつて私が名古屋学生センターの主事をしていた頃からの青年仲間の片岡真実さんが作られた、大学の卒業制作だとのことでした。
 真実さんは今や世界的なキュレーターとなられ、現在、東京・六本木にある森美術館の館長や国際美術館会議会長を務められています。先日も森美術館の特別展を、片岡館長直々のご案内で鑑賞させていただきました。1月5日付け朝日新聞夕刊にも一面を使って真実さんのインタビュー記事が掲載されていましたが、その中で印象深かったのは、「名前『真実』は新約聖書の一節に由来する」と記されていたことです。
 昨年末、2022年に開催される国際芸術祭「あいち2022」(旧「あいちトリエンナーレ」)の芸術監督を、真実さんが担われることが発表されました。その記者会見の中で、未来のみならず過去の多様な人類の歴史にも光を当て、新型コロナウイルスや、人種、ジェンダー、民族的な差異に対する差別や不平等などの課題を、現代の問題としてとらえ対峙していくことの大切さを強調された上で、こう語られたのです。
 「生きることは学び続けること。未知の世界、多様な価値観、圧倒的な美しさと出会うこと」
 私は、これはまさに彼女の「祈り」なのではないかと思います。私たち教会が語るべきメッセージのひとつが、ここにあります。

動画:<オンライン鼎談:コロナ時代に問う「神学+教育2.0」>

キリスト新聞社主催<オンライン鼎談:コロナ時代に問う「神学+教育2.0」>に西原主教も登壇しました。
YouTube動画が公開されていますので、ご視聴ください。

***以下、主催者サイトより***

オンライン化がもたらすキリスト教の“希望”とは?

長引くコロナ禍で、すでに語り尽くされた感のある「新しい教会様式」。礼拝や授業のオンライン化がもたらしたものは何だったのか?
形骸化する「エキュメニカル」運動の課題を克服し、この危機を前向きな原動力に変えていくための知恵とは?
オンライン(バーチャル)かオフライン(リアル)かという二者択一の議論を越えて、これまでの教会、神学の課題と向き合い、単なる「延命措置」「対症療法」に留まらない展望はどこに見出せるのか――。
 新年度を前に、キリスト教主義学校で教育、実践神学に携わる識者が集い、改めてコロナ時代の宗教、学校、教会が生きる道を模索しました。牧師や信徒、非信徒の垣根を越えて、苦難に満ちた現代社会の要請にも応えつつ新たな価値を創り上げるため、ぜひご視聴ください。

00:08:10~ 各校の現状とコロナ禍対応の実際
00:26:50~ 教育現場のオンライン化がもたらした最大の変化は?
00:58:34~ 教会のオンライン化に対する期待度は?
01:36:38~ コロナ時代のキリスト教・神学でカギを握るのは?

【登壇ゲスト】

・小原克博 こはら・かつひろ 1965年、大阪府生まれ。同志社大学大学院神学研究科博士課程修了。博士(神学)。現在、
同志社大学神学部教授、神学部長・神学研究科長、良心学研究センター長。専門はキリスト教思想、宗教倫理学、一神教研究。先端医療、環境問題、性差別などをめぐる倫理的課題や、宗教と政治およびビジネス(経済活動)との関係、一神教に焦点を当てた文明論、
戦争論などに取り組む。神道および仏教をはじめとする日本の諸宗教との対話の経験も長い。

・中道基夫 なかみち・もとお
1960年、兵庫県生まれ。 関西学院大学大学院神学研究科博士課程前期課程修了、修士(神学)。ハイデルベルク大学神学部、博士(神学)。現在、
関西学院大学神学部教授、神学部長・神学研究科。 専門は実践神学。宣教学に関心を持ち、アメリカから伝えられたキリスト教、
特にキリスト教葬儀が日本の宗教や文化と出会いどのように受容され、変容したかというインカルチュレーションの問いに取り組む。その関連から、礼拝学、牧会学へと関心を広げている。
・西原廉太 にしはら・れんた 1962年、京都府生まれ。京都大学工学部卒業。立教大学大学院文学研究科組織神学専攻修了。博士(神学)。4月より立教大学総長。日本聖公会中部教区主教。専門は、アングリカニズム(英国宗教改革神学)。世界教会協議会(WCC)中央委員。
キリスト教学校教育同盟理事長。16世紀以降の英国宗教改革神学
、現代アングリカニズム・エキュメニズム、とりわけ職制論・教会論・宣教論を中心に、それらの現代的意義と課題を研究している。